<第58回>藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第5回ー

【序章 そもそも禅ってなんですか?】
※ 今回は「序章」の4回目です。

―― 禅の始まり 禅の特徴 ――

伊藤比呂美(以下、比呂美) 仏教の中で禅はどういう位置づけなんでしょう。禅の始まりも、シッダールタ(㊟ お釈迦さまの本名)ですよね。
藤田一照(以下、一照) 禅の始まりに関しこういう話が伝わっています。あるときにシッダールタが説法の場で、何も言わずに黙って花を手に取ってみんなに見せた。みんな困惑して中、摩訶迦葉(まかかしょう)という弟子だけがにっこり笑ったそうです。するとシッダールタが「お前に私の法を伝えた」と言った、ということです。言葉では何も説法をしていなんだけど、そこに本質的なことが伝わったというので、禅の本質のひとつである「以心伝心」といわれている。これは歴史的な事実じゃないんだけど、これが最初の禅だと言われています。その話のポイントは、「言葉を介さないで法が伝えられた」ということです。
※ 禅と坐禅の違い・・・「坐禅」は「禅」に伝わっている最重要の行法のこと。
比呂美 禅という言葉の始まりとは?
一照 「禅」は、言葉として伝わっているわけではなく、禅と呼ばれる独自のスタイルが伝えられてきている。
禅の「四つの特徴」としてよく言われるのは、教外別伝(きょうげべつでん)、不立文字(ふりゅうもんじ)、直指人心(じきしにんしん)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)です。その意味は、「教」というのは書かれたものですから、つまり経典。経典とは別に、人と人との直接的な伝授によってシッダールタから伝わってきたものがある、それが禅であると。それは文字によらない、直接に人の心を指し示して、自分の本性みたいなものを発見して成仏する。これが禅の特徴だと言われている。先のシッダールタと摩訶迦葉のエピソードが、その最初のモデルとなっている。
比呂美 シッダールタはそのとき、何を伝えたんですか。悟りの本質?
一照 そのとき伝えられたものを「正法眼蔵涅槃妙心(しょうほうげんぞうねはんみょうしん)」といいますが、それを禅では、 「本来の自己」とか「本来の面目」と言います。摩訶迦葉自身が本来の自己に目覚めたということが、「法が伝わった」ということです。シッダールタが炎の燃えているローソクだとすると、その時の出来事によって摩訶迦葉のローソクにも火がついた、とも表現できる。この「本来の自己」という表現は、禅独自のものです。
比呂美 では、宗派としての禅宗は、もともと誰が始めたんですか。
一照 一般的には南インド人の達磨(だるま)が中国にそれを持ってきて始まったといわれているのですが、禅宗の始まりに関してはいろいろな見方がありますが、少なくとも中国で生まれた新しい仏教の一形態だということは確かだと思われます。でも禅の人たちは「自分たちが勝手に始めたのではなくて、シッダールタのときに、もう既に禅は始まっていたんだ」と主張します。でも、さきほどの「花を掲げて以心伝心」というエピソードは、後の世に作られたものです。
ところで、仏教そのものはインドから中国へ伝えられた。そして、大変長い時間を要していますが、ある時期からいろいろな経典がシルクロードを経て中国に運ばれてきた。そこで問題なのは、経典が成立した順に伝わってきたわけではなく、後でできたお経が先に入ったり、初めのころにできたものが後から伝わったりとバラバラだったことです。中国の仏教は、まず経典の翻訳から始まったんです。そしてその次の段階として、書かれた 時期がバラバラの経典の(㊟書かれた時代によって解釈がいろいろ異なる)それらの経典のつじつまを合わせなきゃいけなくなった。基本的に、インドから伝えられた経典全部が、文字通り「シッダールタというブッダが言ったこと」として中国に入ってきている。今なら「同じ一人の人間が言ったんじゃなくて、いろんな時代にいろんな人が作ったものだから見解が違うのは当然だ」と言えますが、昔はそうじゃなかった。このようなつじつま合わせの作業を教相判釈(きょうそうはんじゃく)といいます。そして、翻訳の次に、個々の経典を哲学的に深読みして教相判釈をするということが行われた。その頃の中国の仏教は学問的なんです。そして、華厳経(けごんきょう)を専門にやる人たちが華厳宗をつくり、法華経(ほけきょう)を専門にやる人たちが天台宗になり、といろいろ宗派ができて、そういうタイプの仏教が奈良時代に日本にやってきた。
だから仏教の学問をすると、経典を深く読んで哲学解釈をすることが、実際に仏教に取り組む、つまり動詞の「仏教する(仏教を信じる)」ことだったんです。しかしやがて、「仏教と、私が生きるということとは、どういう関係があるのか」という実存的な立場から仏教を考えようという人たちが出現してきた。その人たちは、ただ経典を読むだけではなくて、経典に書いてあるような修行、おもに「瞑想行」を実際にやるようになっていく。そのような初期の禅宗の先駆者ともいえる人たちがだんだん出てきたんです。つまり、経典を読んで知的に理解するだけじゃなくて、シッダールタが経験したことを自分たちも身をもって経験して、彼のいうことを直接理解しようという人たちで、中国の禅はここから発祥している。

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