<第59回>藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第6回ー

【序章 そもそも禅ってなんですか?】
※ 今回は「序章」の5回目です。

―― 能に通じる禅説話の面白さ ――

(㊟ インドから中国に伝わってきた仏教が、その教義と共にたくさんの経典ももたらされたことから、その解釈を巡っていろいろな宗派が生まれた。そうした中で、その後から、中国の独自性を色濃くそなえた「禅宗」が起こってきた。その禅宗へ、以前からあった仏教各宗派から鞍替えする人たちも出てきた)
藤田一照(以下、一照) 八世紀ごろの中国で、「棒の徳山(とくざん)」として有名な徳山禅師はもともとは金剛経(こんごうきょう)の権威だった。ある時、徳山の耳に「最近、禅とかいう名前で、仏が言っていないことを広めて、経典なんかどうでもいいとかほざいているとんでもない罰当たりな連中がいるらしい」という話が届いた。そこで徳山は「けしからんので、そいつらを懲らしめに行こう」と、金剛経の注釈書、参考書みたいなのをいっぱい背負って、ある禅匠の道場へ向かったんです。そして、その道場のある山のふもとに茶屋があって、そこにお婆さんがいた。徳山はお婆さんに、咽が渇いたからお茶をくれといったんです。
茶屋のお婆さんが「あんたお坊さんのようだが、何者だね?」というから、「金剛経の権威として有名な徳山というものだ」と答える。すると婆さんは「なるほどね。ところで金剛経には過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得、つまり過去の心はつかめない、現在の心もつかめない、未来の心もつかめないと書いてあるね」と徳山に吹っ掛けてくる。「婆さん、そんな事よく知っているね」と驚く徳山に、お婆さんは「では私が差し上げるこのお茶は、あんた、どの心で取るんだい」と突っ込んできた。これはいかにも典型的な禅問答のやりとりです。
答えに窮している徳山に婆さんは「じゃあ、あんたはここでお茶を飲めないね。さっさと帰んなさい」と言われて大ショックを受けた。あれほど研鑽を積んできた自分だが、こんな茶屋のお婆さんの言うことにすら答えられない。
(㊟ こんな山のふもとの茶屋のお婆さんに、これほどの感化を与えるこの山の坊さんとはどのような人か、と徳山はいぶかり、その人を訪ねる。そしてとうとう徳山は、その禅匠の下で禅の修行をすることになる)
このほかにも、有名な香巌(きょうげん)という人の話がある。香巌は「私は経典をひととおり全部読みました。でも何か心が晴れないのです」と、自分の禅の師匠に嘆く。そこで師匠は「お前のいつも使っている、どこかで聞きかじった言葉ではなくて、お前独自の言葉で何か言ってみろ」と投げかける。ところが香巌は、何か言おうと思うと全部どこかに書いてあった人の言葉しか浮かんでこない。それで「だめです。私独自の言葉が出てきません」と言って、持って来た本を全部焼いたという話がある。これは、本に書いてあることを覚えたくらいじゃ禅では通用しないということをシンボリックに言おうとしているんです。
伊藤比呂美(以下、比呂美) 最初の徳山の話なんて、能の『卒塔婆小町(そとばこまち)』にちょっと似ている感じがしますね。
旅の坊さんが朽ちた卒塔婆に腰かけているお婆さんに出会うんですよ。このお婆さんが実は絶世の美女だった小野小町なんですけれど。それで坊さんが「なんでそんなところに座っている」と説教しようとしたら、逆にお婆さんが含蓄のあることを言ってやり返したっていう話です。思いがけなく教養があるんですよ。
一照 徳山や香巌は学問や知的な概念の武装では通用しない人生の実存的なジレンマみたいなものを薄々感じているから、婆さんや禅匠の突込みにピンと来た人たちなんです。やっぱりそこに仏教の本質があるということなんじゃないかな。
比呂美 (㊟ 香巌のように)自分の言葉で言ってみようとする、っていうのが今の私に通じる。シッダールタ(㊟ お釈迦さまの本名)が生きていたころは彼が自分の言葉で教えてくれたんだろうけれど、いなくなってしまいましたからねえ。
一照 禅では、シッダールタの言葉をああだこうだと解釈したり、それにとらわれているのは、シッダールタが尻を拭いて捨てた紙を後生大事にためているようなものだ、みたいなひどい言い方をする。禅の特徴として、当時の仏教界の常識を、あえて全部ひっくり返すような表現をするんです。「この世でいちばん尊いものは何ですか」という問いに、「それはうんちだ」という。つまり、おまえが「仏教でいちばん偉いもの何でしょうか?」いうような思いで探していても、見つかるのはせいぜいカラカラのうんちみたいなものだ、という痛烈な答えなんです。でもそのことで伝えたいのは、「だからもっと生き生きとした、切ったら血が出るような瑞々(みずみず)しいものを、お前は探さなくてはいけないぞ」というほんとは親切な示唆なんです。真実を探し求める方向を、かなり荒っぽいやり方で軌道修正してやろうとしている。さっき出てきた徳山なんかは、自分の弟子を何でもかんでも棒でぶっ叩くことなんです。そういう禅独自の教育方法というのがあるんですね。誤解されやすい危険性はありますけどね。
比呂美 禅って、頭脳派と思ったら、肉体派はなんですね。
一照 直接的なんですね。ギンギンのライブ感。だからどう見ても暴力的としか思えないような言動も結構あるんですね。でも、それはみんな老婆心から出ているというんです。そういう荒っぽい言動に対して「そんなわからず屋は放っておけばいいものを、なんでそこまで親切に教えるのか」みたいな批判も、後世になって出てきたりもします。

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