<第63回>藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第10回ー

【序章 そもそも禅ってなんですか?】
※ 今回は「序章」の9回目です。

―― 坐禅と瞑想って何が違うの? ――

伊藤比呂美(以下、比呂美) (㊟ 前回のお話ですと)臨済宗の坐禅は、悟るために修行をする、その中に坐禅があるんですね。それでは、曹洞宗の坐禅について道元はどういっているのですか?
藤田一照(以下、一照) シッダールタ(㊟ 釈尊の本名)が樹の下で坐って悟りを得た、あれを純粋に伝えてきたのが坐禅で坐るということ、というのが曹洞宗の立場です。シッダールタが公案に取り組みながら坐禅していたはずはないので、曹洞宗の坐禅はただひたすら坐る、純粋に坐ることに専念するだけです。それを只管打坐というわけです。道元さんは「坐禅」というよりももっと端的に「打坐(たざ)」といっていますね。この「打」は打つ、hitという意味ではなくて、中国語の用法で動詞の前につけて「ただそれだけ」という意味を強める働きをします。
比呂美 シッダールタの坐ったかたちの坐禅を、それをそのままに再現する?
一照 そうです。みんなが思っているようにこれからぼちぼち悟るために坐るのではなく、悟りの具現した姿が坐禅だということですよね。シッダールタの打坐が次の世代に伝わり、また次にという具合に代々伝わってきた。達磨さんは菩提樹の下じゃなくて少林寺の裏の洞窟の中で壁に向かって坐ったけど、あれもシッダールタが樹の下で坐っていた打坐と寸分違わないことをやっていたということです。あれを瞑想だという人もいるけど、そうじゃない。あれは坐禅だ、というのが道元さんです。
比呂美 あれは瞑想とは違うのですか?
一照 格好は似てますが、その内容とか目指すところが違います。瞑想には、煩悩を払うとか、集中力みたいな何かの能力を磨くとか、そんな人間的な目的があるでしょう。坐禅はそんなせせこましいことのためにあるんじゃない、というのが曹洞宗の坐禅の理解の仕方なんです。僕の法の上でひいじいさん(㊟ 坐禅の修行をする上での師匠のそのまた2代前の師匠)にあたる澤木興道(さわきこうどう)老師(1880~1880)は、「人間がちょっとましになるために坐禅をしているんじゃない」といっている。「むしろ人間を開店休業にするのが坐禅なんだ」と。
曹洞宗の坐禅のそういうところがまだあまり一般には理解されていない。坐禅で精神統一しているんだなとか、無念無想になろうとしているのだな、とか思われているでしょう。そういうのはあくまでも人間が人間のためにやっている人間業です。スポーツのエクササイズと変わりないじゃないですか。坐禅は人間が人間を超えて仏をやっている(㊟ 仏の成し得たことを後追いしている)んだという坐禅のもの凄さをお坊さんも含めてほとんどの人はわかっていないと道元さんが鎌倉時代にもうすでに嘆かれている。
比呂美 道元さんの書かれた『正法源蔵』は難しくて、歯が立たなかったけれど、道元さんの言っていることが少しでもわかれば、シッダールタの真意がわかるかもしれないですね。
一照 僕は道元さんを通してシッダールタの言ったことを理解したいと思っている。たとえば、『正法源蔵』の中の『弁道話(べんどうわ)』は、こういうふうに始まっています。
 「諸仏如来(しょぶつにょらい)ともに妙法(みょうほう)を単伝(たんでん)して、阿耨菩提(あのくぼだい)を証するに、最上無為(さいじょうむい)の妙術(みょうじゅつ)あり。これただ、ほとけさづけてよこしまなることなきは、すなわち自受用三昧(じじゅようざんまい)、その標準(ひょうじゅん)なり」 、格調高くていい文章でしょう。
比呂美 文章はとってもかっこいいけど、意味がぜんぜん分からない・・・。
一照 無駄なところがひとつもない。もうこれだけで仏教の説明は終わりといってもいいぐらい完璧な感じがします。
 「諸仏如来」というのは、自己を整えた人たちの系譜だね。それはみんな妙法、つまり人間の理知ではとらえきれないものを妙というのだけど、そういう真理を一人ひとりが師から弟子へと親密な関係を通して間違いなく伝えてきた。
 「阿耨菩提」というのは、そこから上がないぐらいの最高の目覚め、そのぐらい深い洞察を証する、つまり生活の中にちゃんと具現してきた。それが仏教の歴史なんだということですよ。
 仏が仏に伝えていくのが仏教である。その際に、最上無為の妙術あり。そういうことを実践するのに最上の、しかもオレが一生懸命頑張ってやるというレベルのものじゃなく、無為無心で行われる行法がある。それこそが仏から仏へと混じり物や歪曲なしに純粋に伝えられてきたもので、それが自受用三昧である。だいたいこういうことが書かれているんですけど、端坐参禅(たんざさんぜん)、つまり坐禅がその自受用三昧の入り口なんです。
 (㊟ 「自受用」とは、人はみな、単なる空っぽの器で、どの人も同じだから区別のしようがない。自己と他者の違いは、その空の器である自分自身に何を取り入れたのか、どんな経験をしたかによって生じるものにすぎない。したがって、通常の言葉で言う「自分」など存在せず、人は経験そのもので、自分=経験であると言うことができる。「こうなりたい、あれがしたい」という、存在しない自我に囚われることをやめて、空っぽの器になって、経験になりきること。自分=経験なのだから、経験をしている限りにおいて、自分は存在しないことになる。
三昧」とは、原語はサンスクリット語のサマディーで、「何ものかに没入し、そのものになって、自分を忘れる」という意味。
 「自受用」と「三昧」をセットにすると、自分がないのだから、悩んだり、苦しんだりせずに、今この時、自分を忘れて経験になりきれば、それでよし)

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