<第64回>藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第11回ー

【第1章 私の坐禅は正しい坐禅?】
※ 今回は「第1章」の1回目です。

―― 禅は簡単に入門を許さない? ――

伊藤比呂美(以下、比呂美) 仏教関係の本に大変興味をもって、これまでにもいくつか私なりに眼を通し咀嚼(そしゃく)してきたつもりだし、自分なりに面白いところを見つけて切り込んでいけたけど、しかし、こと禅関係の本、たとえば『臨済録』や『正法眼蔵』といったものは、とにかく意味が通じない、取りつく島がない。親鸞や法然や一編(いっぺん)、明恵(みょうえ)の書くものは、もっと人に伝えようという意識がみられる。それに引き換え、禅の本は不親切で、ある意味高踏的だ。
藤田一照(以下、一照) 確かにそういう印象を与えるかもしれない。禅はのっけから「いやあ、よく来たね。ウェルカム!」とは言わない。まずとりあえずは、冷たく追い返すのが禅の伝統なんです。
比呂美 せっかく来たのに追い返しちゃうんですか。
一照 そう。たとえば、後に達磨さんから数えて六番目の禅の祖師(禅のマイスター)となった慧能(えのう)さん。お坊さんになろうと決心して、五番目のマイスターの弘忍(ぐにん)さんのところへたずねていった。ところが「お前のような南方からきた蛮人は悟ることはできんから、さっさと帰れ。もしどうしても、というなら台所にいって米でも搗(つ)いてろ」というひどい扱いをうける。それがある意味の禅の伝統になっている。
もう一つの例は、それからもっと昔の、禅宗の初祖である達磨さん。達磨さんは、南インドから禅を伝えに来たはずなのに、それらしい布教活動なんか全然やらずに世間に背中を向け、少林寺の洞くつでずっと坐っていただけでした。そこへ、後の二祖となる慧可(えか)という人が、この人は中国人なんだけど、「私は心が安らかになりません。どうかあなたの持って来た仏法を教えてください。その教えで私の心を安らかにしてください」と熱心に求めてやってきた。でも達磨さんは、「お前程度のコミットメントでは無理だ、帰れ」とにべもなくはねつけるわけです。そこで慧能さんは、自分の決意を示すために腕を肘から切ってそれを差し出すんです。もちろんこれは、事実というよりはシンボリックなお話でしょうけどね。そのくらいの覚悟がないやつでないと禅は入門を許さないぞっていうメッセージです。
比呂美 禅では今もやっぱりそんな感じで、助けを求めてきた人を、とりあえずダメだといって追い返すんですか。
一照 そうですね。いまの禅道場でもまずは一応、入門を拒否することになっています。もちろん、それはたいていの場合は嘘ですよ。とりあえずそう言うことになっている。禅宗の言葉で「庭詰(にわづめ)」とか「旦過寮(たんかりょう)」という試しの期間があって、来てすぐには修行者集団の中に入れないようにしています。それは達磨さんと慧可さんのエピソードを追体験するみたいな、形として今も残っている。立ったままずっと入口のところで待たされたり、狭い部屋で長いこと坐らされたりする。

―― 儀式の力 ――

一照 (一照さんも)博多にある曹洞宗の明光寺(みょうこうじ)という修行道場へ修行に行った。曹洞宗では「旦過寮(たんかりょう)」という試しの期間がある。
先ず、入り口で「たのみましょー」と大声で来訪を告げると先輩僧が出てきて、怖い声で「どーれ、尊公(そんこう=あなた)はいったい何しにここへ来た?」と聞くんです。それで、決まり文句で来意を告げると、それに対して「お前は、どのくらい覚悟があって来たのか」とか、「ここで骨を埋める気があるのか」とか突っ込まれます。もちろんそれも儀式で、双方ともそれを承知しています。それから、「そこで待っていなさい」といわれて入口のところで3~4時間ぐらい立ったまま待たされました。それで夕方になると、今日は帰るところもないだろうからと、旦過寮という小さな部屋で寝かせてもらえる。それでその翌日から、ずっとそこで壁に向かって坐禅していなきゃいけない。それを三日か四日やると、そのぐらいやる気があるなら受け入れようということで、ちゃんとした坐禅堂の中に自分の坐り場所をもらえます。
修行者としての自覚というかやる気を起こさせるための工夫された手続のようなもの。世間にいたときのような甘い、物見遊山気分ではここでは通用しないぞという道場側の態度表明、そこに加わる者のための通過儀礼だと思いますよ。
比呂美 瀬戸内寂聴(せとうちじゃくちょう)先生が比叡山に入ったときも、やはりいろいろこんなふうな儀式的なことをしたと伺ったし、小説にも書かれていますよね。
一照 修行道場というのは修行者の共同体ですから、いい加減な気持ちで入ってくる人がいると本当に困るので、ある程度フィルターにかけないといけない、ということのようです。ほとんどの人はあらかじめは想像はついているのだろうけれど、実際に面と向かって「帰れ」といわれたり、ずーと立たされたりすると、やはり想像するのと実際とは違います。私自身もどんなことをやるのかあらかじめ知ってはいたけど、実際にみんなの前を合掌して頭を下げて歩いたりすると、事前に想像して高をくくっていたのとは全く違う何かが身体に染み込んできた、という経験はあります。
比呂美 儀式の力ですか。私はこれまで、儀式っていうものをまったく排除して生きました。儀式みたいなのは本当はすごく好きなんです。だって詩なんて、儀式のときに出す言葉を元にしているものですから。でも一方で、自分自身に正直に、ありのままにという生き方をしてきちゃった。だから、儀式には力があるといわれると、それにたいする憧れと、逆に、あたしはやりたくない、そういう場や仲間に入りたくないという両方の気持ちがあります。
一照 それは逆に、儀式のパワーってものを証明しているんじゃないですかね。やはり部外者には、ちょっとなにこれ、という抵抗感や違和感。だから余計に、そこでその一線を超えると違う世界に入れる、みたいな。場に入るというのは、外から場を第三者として見ているのと、場の中に入って実際に自分がその一部になるのとでは体験としてまったく違いますね。だから、宗教の世界には儀式的なものがどうしても必要なわけです。頭を剃ったり、服装を変える、名前も変えたりすると、自分のアイデンティティがガラッと変わる。それに伴って言葉使いも、立ち居振る舞いも全部変わる。これまで抱えてきたものをみんな後ろに置き去りにして、前の自分に一回死んで、それから新しい場の中で生まれ変わる。
比呂美 一照さんは、見ているとすごく自由で、世間の常識に縛られない、とりとめのないような感じがしますが、でもやっぱり儀式とか、コミュニティの中に自分を入れて律するということが必要だったんですね。
一照 僕は基本的に儀式ばったことは好きではないけれど、一回それを通って新しいところへ出るというのは、必要だったかもしれないです。そういうものに助けられ、支えられたと思っていますよ。

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