1月18日「藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第11回ー」を受けて

【第1章 私の坐禅は正しい坐禅?】
―― 禅は簡単に入門を許さない? ――
及び
―― 儀式の力 ――  から想を得て。

先ず ―― 禅は簡単に入門を許さない? ―― から

私ども「市川静坐会」でやっている坐禅は、出家をしていない、即ち僧籍に属していない一般人のみで行っている禅の会です。居士禅あるいは在家禅と言われます。
ですので、本章で言われているような「修行道場に入門するための儀式あるいはしきたり」と言ったものは特にはございません。ですので、今、各地で行われているような瞑想の会とか、いわゆるマインドフルネスの会との区別が判然としないように見られがちですが、けれども、明確に「正式な坐禅の修行をしている会」であることは標榜いたしています。
これはある意味、「入会し易い」ということになり、それは取りも直さず「出入りが自由」ということで修行を中断してしまうことも比較的簡単にできていまうことがやゝ問題ではあります。「坐禅」というのは大変、息の長い修行を要することで、非常に難しさを伴います。ただ、坐禅というのは「続けてみないとその結果が得られない」ということも、まぎれもない事実です。ですので、この本章で藤田一照さんがおっしゃられるような「修行に向かっての覚悟」と言ったものを、その意志を、そのご当人に確かめたい、というのも主催する側の本音でもあります。私は、「坐禅をやってみたい」と言われて参加される方々には、必ず「是非続けてみて下さい。簡単に止めるようなことはしないでください」と、申し添えることにはしています。
私ども「市川静坐会」では、毎週土曜日、午後6時から、市川市の中央公民館でほぼ必ず(ここで「ほぼ」というのは、公民館自体が土曜日に休館になることが年に何回かあるからです)行っています。ですから、私どもは「毎週土曜日のこの時間にやっていますから‟ご都合の宜しい時”いらっしゃってください」とご案内します。そこへんが「軟弱」というそしりを受けかねない処ではあります。
居士禅である以上、一般人がその対象である以上、「修行を続けるかどうか」は出来るだけご本人の意思を尊重することは大事だ、と考えています。けれども、繰り返しになりますが、「禅の修行というものは‟続けてみないとどういうものかわからない”」、というのは絶えずついて回ります。ですので、出家して、剃髪(ていはつ=頭の毛を剃って丸坊主になること)をして、家族はもちろん、世間との縁は切って修行に専念する、という状況に身を置く、ある環境で進退窮まった状況の中で否が応でも修行を続けざるを得ない状況に身を置く、ということは、そうすることによってその人が得るものが大きいからだといいことで、そのことを体得している先人や諸先輩の方々が知っているから、やゝ強制的にその人を拘束するのです。
それをしない「居士禅の修行」は、その良さを分かるには非常に難しい、ということになります。「居士禅の修行は出家僧の修行より難しい」と言われますが、それは、あながち出家して修行をされている出家僧(あるいは雲水)の方たちからの外交辞令ではなさそうです。

次に ―― 儀式の力 ―― から

私ども「市川静坐会」のやっている坐禅も、「正式な禅の修行」を標榜している以上、静坐会を行う中で儀式や作法は大事にします。それは、単に古来からの作法に則りそれを踏襲している、ということではなくて、本章で一照さんがおっしゃられているように、やゝ大げさにいえば、それらをすることにより全く異次元のステージへ身を移す、ということでもあります。
これを、往々にして「非日常体験」と感じ珍しがられそれに興味を持って来られる方もおられますが、そういう一過性の‟体験”にしてしまうのではなくて、その儀式的なものの先に「坐禅の修行」が控えており、それは取りも直さず、「日常からの脱皮」として(メインの坐禅の修行を含め)我が身、我が心を止揚していくプロセスである、ということを認識してまらえれば有難いのですが。

カテゴリー: ブログ パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です