1月25日「藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第13回ー」を受けて

【第1章 私の坐禅は正しい坐禅?】

―― 自発性が一番大事 ―― から想を得て。

 私どもの「市川静坐会」には、昨年も、一年間で20人以上の方が「坐禅をしたい」ということで見えられます。その来られる理由は、前回1月23日の「― 坐禅でワープ体験 ―から想をえて」でもご紹介しましたが、全く千差万別です。そして、大変残念なことですが、その後続けられる方はほんのわずかです。「なぜなのだろう」という自問自答は私どものほうでもあるのですが、来られなくなった方のご事情は、想像しますにこれまた千差万別なのでしょう。 
 その意味で、前回の「坐禅でワープ体験」と今回の「自発性が一番大事」の内容は、非常に示唆に富んでいると思います。
 繰り返しになりますが、「坐禅でワープ体験」の中で伊藤比呂美さんが珍しく長舌で話されていた内容は、初めて坐禅をやられる方の恐らくはほとんどが味合わっておられると思います。私自身のことといえば、相当昔のことですのではっきりとは覚えておりません。それまでの日常ではほゞないでありましょう、独特に足を組み、じっと動かないで、ひたすら「自分の呼吸に注意を集中して・・・」なんぞといわれ、たぶん20~40分時間を経過する。その間、頭の中はあらゆる妄想・妄念がめくりめき、ただひたすら時間の経過を待っているだけ、初めての方なら、それまでの人生でそのような時間の過ごし方は多分なかったことでしょう。それでも「初めて」のときは、伊藤比呂美さんのようにワープ感があったかどうかは分かりませんが、同じくおっしゃられたような「温泉から上がったようなふわあっとなるような感じ」はご経験あると思います。そして、その上で「この次もこれを味わおう」というので何度か見えられるうちに、それもだんだん新鮮味を失ってきて、実は「坐禅で得られるものはそのずーっと先にある」のですが、そのことを見てしまって、その旅程の途方もない長さに絶望されるのか? この辺で多くの方が諦めてしまわれるのではないか、と、勝手に想像してしまいます。この辺は、私自身も似たような感覚を自覚しておりますので。
 そこで、前回の「― 坐禅でワープ体験 ―から想をえて」でも、「禅に関するいろいろな予備知識(伝聞情報)がかえって邪魔になる・・・」と申し上げましたが、でもここで前言を翻すようですが、そこで、諸物に書かれている、あるいは聞き及んでおられる「坐禅の秘めたる‟奥深さ”」を改めてお信じになるかどうか? 坐禅を続けられるかどうかは、ひとえにそこに帰趨すると思うのです。
 そして今回の「―― 自発性が一番大事 ――」に繋がるのですが、そこからの「道のり」が、これまた延々と続くのです。藤田一照さんがおっしゃられているような「自己嫌悪」と、予備知識や思い込みの理想像など自分で自分自身に「はめるタガ(?と書き、おけなど締め付ける輪っかのことで、転じて<拘束すること>を意味します)」に身も心も分離していまい(禅との戦争)、ヘトヘトになってしまう、というのがだいたいのプロセスなのではないでしょうか。
 そこで、藤田一照さんがおっしゃられているように「自発性が一番大事」というのが生きてくると思います。「初心忘るべからず」、「禅の予備知識」や「道のりの 間遠なること」を覚悟の上で、ひたすら虚心坦懐に‟やってみる”ことに打ち込む、というのは如何でしょうか。
 

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