<第68回>藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第15回ー

【第1章 私の坐禅は正しい坐禅?】
※ 今回は「第1章」の5回目です。

―― 全てを使って自分する ――

藤田一照(以下、一照) 坐禅は体と心をフルに活かして、「仏教そのもの」を実地でやることです。だから頭も心も魂も体もみんな働いてもらう。そればかりか、床からの助けも、空気も湿度も、つまり環境も全部が坐禅をするときの一部になっている。だから縁起の全体、私の関係性全部を使って坐禅をしているといってもいい。

※ 縁起(えんぎ)=仏教の基本的な考え方で、全ての存在、現象、すなわち自己や仏
  を含む一切の存在、現象は縁起によって成立しており、したがってそれ自身の
  本性、実体といったものは存在せず、空である。ものごとの原因や条件は相互に
  関係しあって成立しているもので、それ自体が独立自存するものではない。した
  がって、条件や原因がなくなれば、その存在、現象も結果も自ずから無くなると
  いうことを指す。

縁起って、ここから先は縁起じゃないって境界線を引けないから、宇宙大のネットワークをすべて動員する。
伊藤比呂美(以下、比呂美) 「宇宙大のネットワーク」といういい方は、なんか、安直な言い方のような気もするけれど、その安直さがむしろすんなり納得がいく。
一照 すでにそこにあるものを全部活かして「すべてのものとつながって今ここでこうして生きている自分」ということを純粋にやる。自分を自分する、といってもいい。
さきほど紙を例にして少し説明しましたが、一切が自分の内容なっている。

※ 「紙を例にして少し説明しましたが」について--本書『藤田一照:伊藤比呂美
  対談〔禅の教室〕』の「第15回」のところで一照さんは、この、仏教の基本概念で
  ある「縁起」について、具体的例をひいて説明をされていました。本ブログでは、
  スペースの関係で省いておりました。
  その概略を改めて掲載しますと、今手元にある「紙」を例にとると、普段、使っ
  ている紙ですが、紙がつくられるに状態になるまでにはいろいろな道具が必要で
  あり、また、それを操作し紙の状態にするために人の手がたくさん関わっている。
  さらにはその原料にまで遡れば、パルプにするために木材が必要である。その
  木材にしても、森や林で樹木が育つには、土の栄養分や果てはそれを育む太陽
  も必要不可欠である。このように日常で何気なく使っている紙も、大変多くの
  「縁」がつながって、いま‟紙”として私たちの手元にある。一照さんはこの
  ような例をひいて、仏教で言うところの「縁」を説明されています。

言い換えると、一切何も排除するようなものはないし、そんなことできないということですよね。もう現に起きていることは現に起きていることなんですから、選り好みしないで全部受け取るしかない。縁起というのは、すべてがつながりあって刻々と変化していることだと言いましたよね。だから今の瞬間、今の瞬間、全部一回きりでもう二度とないような在り方で、どんどん展開している。ところが僕らは普通それにいつでも文句とか不満があって、何か足したいとか引きたいとか、いじりたいわけですよ。こっちの都合のいいように変えたい。たとえば、熱いから涼しくしようとか、腹が減っているから食べたいとか。大体、無いものを欲しがるのが欲求でしょう。赤ちゃんは縁起のままに生きているけど、ものごころつくと、僕らは、自分という存在を縁起の網の目から切り離して独立したものであるかのように考えてしまう。そして、その観点から縁起に影響を与えてコントロールしようとする。
比呂美 なるほど。そうやって自と他を分けているわけですね。ものごころつくと切り離してしまうんだったら、それは人間のありようとして引き受けないと。
一照 そう。それをやめるわけにはいかない。でも実は、切り離し作業をやめている瞬間は結構あるんですよ。夜寝ているときとか何かに夢中になっているときとか。
比呂美 坐禅をするとその状態になれますかね。
一照 それはちょっと飛躍しすぎじゃないかな。僕らは普段自分を切り離して、切り離した自分を前提に物語を紡ぎだしているわけです。だからたとえば災難というものは、外から自分に向かって降りかかってくるように感じすわけですね。原因は外にある、と。しかし、自分が自分を自分するというところから見ると、それは災難と見る自分が災難を作っているということになるでしょう。
比呂美 そうですね。
一照 たとえば、貧乏が自分を苦しめていると僕らは普通思うけれど、実は貧乏を苦しいと思う心が貧乏を作って、その作り出した貧乏を自分で苦しんでいる。みんな自分のありようと関係があるわけですよ。そういうのが縁起です。で、坐禅というのは、それをよく見て物語の創作を一時的にやめること。それをやめたら切り離す前の本来のつながりに帰れるというか、もっと正確にいうと本来のつながりはやめようがやめまいがずっと続いているんですが、切り離しをやめるとそれに直接親しめる。
比呂美 自分を切り離すと、いろいろな苦ができてくる。坐禅というのはすべてを使って自分する、というわけだから、全部つながっていって切り離さない。

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