<第68回>藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第15回ーを受けて

【第1章 私の坐禅は正しい坐禅?】

―― 全てを使って自分する ―― から想をえて

 「縁起(えんぎ)」という言葉が今回出てきました。最近ではあまり使われなくなったのかもしれませんが、一般にも「縁起がいい」、「縁起が悪い」などと日常的に使われていました。けれども、この日常語としての「縁起」とはやゝニュアンスが異なります。
 「全てを使って自分する」の本文でも脚注でお示ししましたが、仏教の根本概念として、非常に簡略な表現で恐縮ですが、「全ての‟もの”、‟こと”はそれ単独で存在しているのではなくて、すべてが、他のもの(こと)とつながっていることで存在することができる」ということです。この根本理念があって、その上でいわゆる「空」とか、禅でよく使われる「無」という概念が生まれるのです。
 仏教思想や西洋の思想にも造詣が深かく、中国から伝わり日本で成熟したと言われる「禅」を、海外に分かりやすく伝えて広めたことで知られる仏教学者の鈴木大拙さん(1870-1966)は、その著書の中で、「禅とは信仰ではなく修行である」と言われております。この言葉は禅に対する卓越した一つの見方だと思います。この言葉から、「禅は宗教ではない」という派生的な言葉も出てきます。そしてここから「禅は哲学なのか精神思想なのか」といった議論も出てくるのかもしれませんが、このへんになりますと、坐禅を修行する側からすると、禅についての議論としては的のはずれた、いささか次元の異なる話になってしまいます。
 「禅とは信仰ではなく修行である」というとき、この中の「信仰」という言葉を見たとき、その信仰というものの類概念である「宗教」を考えざるをえませんが、「宗教とは」を考えたときに、広辞苑にもあるような「神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離された神聖なものに関する信仰、行事。またそれらの連関的体系」とされております。この定義からすると、あながち「禅は宗教ではない」という言い方も成り立たないわけではありません。しかし、ここで鈴木大拙さんが言われていることは、「信仰」という行為ではなくて「修行する」ということそのものが禅と交わるときの眼目である、と強調されたいのではないかと考えられます。禅と修行とは表裏です。
 本文の「全てを使って自分する」に立ち返りますと、藤田一照さんも、本書の中で「修行する」ことの大切さを度々強調されております。そして、禅は、紛れもなく仏教から発して仏教の一派であることは昔も今も変わりはありません。ですので、仏教の基礎概念である「縁起」という考え方も、禅にとっては決して‟無縁”ではありえないのです。というよりも、縁起というものを抜きにして「禅における『無』」というものを得心することはできません。
 このように考えてくると、本文の「全てを使って自分する(修行する)」という言葉の意味が何となくつながってくるのではないでしょうか。坐禅において「坐る」ということは、全てのものと「つながった上」で坐っているのですから、自分が単独でそこに存在し坐っているのではありません。この世の全てとつながった上で存在し、そしてその存在そのものが坐っているのです。ですので、すべてのものを「総動員して」坐るのです。

 この本文の後半には、「縁を切ってしまい、『自分が単独で存在する』ということが自分を苦しめている元凶です」ということが言われています。このことも、大変興味を呼び起こし、いろいろの想が発生しそうですが、それについては別の機会にしたいと存じます。

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