<第69回>藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第16回ー

【第1章 私の坐禅は正しい坐禅?】
※ 今回は「第1章」の6回目です。このセクションで第1章は最後です。

―― ボディーワークとの共通点 ――

伊藤比呂美(以下、比呂美) 坐禅でよかったことがもうひとつ、目を閉じるのではなく「半眼」になること。私いろいろな運動をやっているんですが、どの運動でも半眼をやるとピタッときまる。
 ※ 半眼(はんがん)・・・目を半ば開くこと。また、その目。特に坐禅をするときは
   半眼になることを勧められます。
藤田一照(以下、一照) 乗馬はすごく坐禅と相性がいいですよ。背筋がまっすぐにならないと、馬はいやがるらしいね。
比呂美 そうなんです。坐骨でピッと馬につなげて、そこからまっすぐになる。あとはぜんぶリラックスさせる。それと、呼吸もだいじ。乗馬だけじゃない、ズンバもそう。先生の動きをよく観察すると、体幹を意識して、丹田に力を込めて、体を動かしている。
 ※ ズンバ・・・エクササイズの一種で、心もそして体の関節や筋肉をすべて開放して
   自由に‟踊る”。
あと、居合も始めた。身体を動かすこと。それが坐禅にも影響するんですか。
一照 僕は坐禅を始める前に合気道と、野口体操をかなり熱心にやっていました。
 ※ 野口体操・・・生きている人間の身体を固体とらえるのではなく、筋肉が緊張して
   いなければ液体的な感じになるとし、原則として動きの形を規定したり呼び名を
   付けたりしない。体の重さを使っていろんな動きをする。
坐禅を始めて、合気道と野口体操で習ったことが僕の坐禅の理解ややり方に入ってきてますね。坐禅もやはり体を使ってやることだから、相当影響されていますね。僕は、体の使い方を坐禅に生かそうとたくらんでいます。
比呂美 馬の先生の言うことは全部、坐禅のときに和尚さんが言ったり、一照さんが言ったりするのと同じなの。
一照 結局、心身をうまく働かせる基本原理は同じなんだと思う。坐禅が苦行になってしまう理由の一つは、坐禅に相応しい心身の使い方をしていないからなんですよ。日常生活で身につけた雑な体の扱い方で、雑に坐るから余計な苦痛を味わうことになる。それを我慢するのが、耐えるのが修行だなんて思いこんでいる。
比呂美 私が、馬に乗っても、気持ちが逸(はや)り過ぎちゃっていつも叱られている。馬は、単なる一匹の動物だけれど、そこで何か、梵(ぼん=清浄・神聖なもの)と我の融合みたいな、梵我一如みたいな、自分以外のものと一体化するというか。この感覚かなー。

―― 外からのシグナルを受け取る ――

一照 さっき「自分の内外のすべてを使って坐禅をする」と言いましたけれど(前回<第68回>の「全てを使って自分する」の内容)、坐禅って自分一人の努力でやるんだと思っているかもしれないですが、いろいろなところから、、実はより楽に安らかな坐り方を教えてくれるシグナルがたくさんきているんですよ。床からやってくる自分の体重への反作用の力具合と息が身体の中を通る時の感覚とか、内外からのシグナルというか情報をいっぱい受け取っている。だけど、オレはこう坐らなきゃ、というできあいの基準を自分に押し付けようと躍起になっていると、そういうシグナルをほとんど見逃してしまう。
そのシグナルを受け止めるには、その押し付けの努力をやめればいいですよ。リラックスする、くつろぐ、そして感じる。自分を閉じたり分断するんじゃなくて、反対に開いたりつなぐ方向に切り替える。
比呂美 馬に乗るとき、簡単に「あ、これ禅じゃん」と思えるのは、そうしないと馬と心が通じなくて馬が動かないから。だけど、坐禅が難しいところは、自分だけで何かしなくちゃいけないってところ。
一照 そういう「馬との一体」のようなところは、坐禅にもあるんですよ。ほとんどの人が、頭の中で「自分がこう考えなくっちゃいけない」、「この考えはダメだ」とか考えてしまう。自分のコントロールが足りないんじゃないかと、自分を責めて、ますますコントロールの度合いをあげていく。そうして、展開が行き詰ってしまう。苦行主義の修行になって、修行が楽しめない。のびのびした面白い世界にどんどん広がっていかない。
比呂美 坐禅って、なんでああいう格好で坐るんですか?
一照 直接の理由は、シッダールタがああやって坐って悟ったからです。坐禅の姿勢は、背筋を重力の方向と一致させるうえで一番安定した形なんですよ。だから長く同じ姿勢を無理なくキープできる。
比呂美 確かに安定してますね、静坐より楽ですものね。
確かに安定してますね、静坐より楽ですものね。
一照 僕がアメリカにいた頃、僕は合気道の黒帯なんですが、道場へ行くと、稽古熱心な大男たちが僕とやろうとワーッと寄ってくる。僕も、一生懸命に相手をする。それでくたくたになって禅堂に帰ってきたら坐禅をする時間だった。こりゃ絶対に寝ちゃうなと思ったのに、そのときの坐禅はすごく楽で眠くもなく、深く集中したものだったんです。別に頑張って眠気と闘ったりしたわけじゃない。合気道の猛稽古であらゆる関節が伸ばされて、余分なエネルギーを全部使い果たしていたのか、坐っている自分の体が透明になったような感じがした。自分というよけいな意識が消えて、ただ出来事だけが起きているというか・・・、雑念も浮かんでこない。
あれは全く予想外でしたね。勝手にそうなってしまった。あのときの坐禅が素晴らしかった理由は、あらゆる関節が伸ばされてほぐされているのと、余分なエネルギーを使い果たしていたのと、それからいちばん大きいのが、僕が坐禅に何も期待していなかったからじゃないかと。こんな疲れているから坐ったら寝ちゃうかもしれないけど、坐禅の時間がきたからしょうがない。寝てもいいからとにかく坐ろうと思って何の期待もせずに坐ったら、え、頑張ってもいないのにこんなにちゃんと坐れていいの? という感じで。自分が努力している感じがまったくしなかったんです。坐禅ではこうしよう、ああしよう、こうでなければ、ああでなければという意識の運び出しをしないほうがいいんだなと悟りましたよ。
坐禅って、最終的にはあの形のことではなくて、「或る状態」のことだから。立ってやってもいい。「いつでも、どこでも坐禅」というのは究極ですよ。
比呂美 坐禅みたいな感じって言うことを、どうやって人に説明するんですか?
一照 まず姿勢ですよね。包丁使うときって、腰が入っていないとリズミカルに切れないでしょう。馬に乗るときみたいにね。それから呼吸、自然に吸ったり吐いたりして。それから視線ですよね。半眼に近くなりますよ。手元を見ているような見てないような・・・。

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