<第70回>藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第17回ー

【第2章 正しく坐るのも一苦労?】
※ 今回は「第2章」の1回目です。

―― 人間の体も「一即一切」 ――
(この項では具体的な「坐り方」、「坐禅で‟坐る”というときの心構え」の解説をしています)

藤田一照(以下、一照) 僕のところでやっている坐禅会では「実験的な坐禅会」をやっています。
伊藤比呂美(以下、比呂美) 実験的とは?
一照 僕がすでに最終的な答えを持っていて、それをみんなに教えている、というのではなくて、みんなと一緒に「実験」をしながら坐禅を深く広く研究していく、というスタイルです。だから僕がそこで話す内容や表現も、初めの頃から比べるとどんどん変わってきている。参加者には最初から脚を組ませていきなり坐禅をするのではなく、まずは楽に坐れる状態になってもらうんですよ。骨格模型を使って体の仕組みを説明したり、体を内面から学ぶような、自分の体の声を聞く稽古をしてもらいながら最終的に坐禅になるようにもっていく。そういう試みをみんなでいろいろやっている。
比呂美 たしかに坐禅会へ行くと、最初に坐り方の基本的なフォームを教えてもらい、こちらは教えられた通しの格好を作るところから始めますよね。道元さんは坐り方について、どういっているんですか?
一照 『正法眼蔵(しょうほうげんぞう) 坐禅儀(ざぜんぎ)』で、「正身端坐(しょうしんたんざ)すべし」といっていて、曹洞宗では坐禅の最優先事項です。でも鏡で自分の姿勢を見ながら胸を張ったり筋肉を緊張させて、自分が思った通りに一方的に正身端坐を見かけ上で作ろうとすれば、それは強引にそういう形を自分に強いていることになる。あらかじめ存在している正答を想定して、それを自分のからだや息やこころに他律的に当てはめようとするのではなく、私たちの坐禅会では、正身端坐とはどういうことか、どういう体の状態かを自分の体と相談しながら研究している。
 生後間もない「赤ちゃん」の写真があるでしょう。すごくキレイにスッと坐ってます。赤ちゃんが坐っているときの姿というのは、背筋がスッと自然に伸びて、じつにいい姿勢で坐ります。赤ちゃん自身には、よい姿勢で坐ってやろうというような、余計な力みやはからいがけっしてない。このような赤ちゃんのように無心に坐ったら結果的に、体の軸と重力のバランスが取れている状態が、道元さんがいう正身端坐ではないか。
 だから僕のところでは、体の軸やバランスが調うような稽古として、音楽を流しながら体をゆっくりとほぐすところから始めます。その時のキーワードは「一生懸命」ではなくて「丁寧」です。体をほぐすとか、関節を回すとか、こんなのは誰でもできるから雑にちゃちゃとやってしまいがちなんだけど、「丁寧」ということはそれなりのゆっくりさで、よーく感覚を味わいながらやっていくということです。
 ここに「ホバーマン・スフィア」といって、イガ栗のような形のゴチャゴチャした、アメリカの幾何学おもちゃがあるんですけど、短い棒というかパーツの集まりに見えるけど、これのどこか一か所を持って力を入れずに軽くひっぱると、残りのすべてが一斉に連動して動き、ふわーっと何の抵抗もなく広がって大きな球体になる。僕はこれをすべてがつながっているという縁起の視覚的なモデルとしても使います。でも、からだほぐしの時はうまくほぐれてからだ全体がまとまって動く様子をイメージしてもらうためにも非常に好都合です。この動きを逆にいうと、一ヵ所がスムーズに動くためにはほかの全部が同時に動かないとダメということです。まさに縁起のモデルでもあり、仏教の一即一切(いっそくいっさい=一が実は一切であるとの教え。逆に一切即一ともいう。一と一切とが融通無礙であることを教えたもの)を表しているといってもいい。外見がどんなにきれいでもその格好で凍りついているような固定的で硬い姿勢じゃなくて、必要だったら次の瞬間にいつでもふっと変われる可能性を秘めた柔らかい姿勢がいい姿勢なんです。
比呂美 でも、これはおもちゃだからこんなふうに動くでしょう。人間の体もそんなことができるんですか。
一照 できますよ。関節が柔らかく使えて全身がつながっていれば自由自在に形を変えられる。マイケル・ジャクソンとか、すごい踊りをする人だっているじゃないですか。
比呂美 あれはプロだから、すごい訓練してきている人だから。私たちのように訓練をしていない人間には難しいでしょう。
一照 だから我々なりに訓練するんです。その方向に向かって。
比呂美 それが坐禅ですか。
一照 そうです。そして心のしなやかさも同じ原理です。たとえばこのホバーマン・スフィアの、どこか一ヵ所を輪ゴムか何かで縛って固定してみてください。ほら、ほんの一ヵ所、ちょっと拘束するだけで、他の部分を引っ張っても動かなくなる。
 頑なな「心のモデル」。どこかにわだかまりがあるなり、トラウマがあったりすると、他が全部スムースに動かなくなるわけですよ。体でも、どこかにしこりや痛みがあると、他の所も自由に動かせなくなるじゃないですか。だから「私の体のここが硬いから」と言って、そこを無理にぎゅーと伸ばそうとよくするけど、このホバーマン・スフィアだったらそんなことするとどこかがバキッと壊れてしまうというのはよくわかるでしょ。そこが硬いのは結果であって、原因は他にあるかもしれない。原因をほったらかしにして、結果だけを無理やり変えようというのはよくない。僕はそれを原因と結果の混同と言うんだけど、解決を焦るよりまず全体をよく見ないといけないんですよ。
比呂美 でもこれをどうやって坐禅に活かすの?
一照 活かすというか、坐禅の理解にイメージとして結びつけるんです。

―― 坐禅は、運動? ――

一照 体を動かす時の説明として、「鞭(むち)をふるう時」をイメージしてください。一番目立って大きく動いている鞭の先端が「運動している」と見えがちですが、実際にはそこが仕事をしているところではなくて、動かされているだけで、そこから一番離れている、目立たなくてじっとしているように見えている手元が働いている。持ち手のところで生まれたエネルギーが、鞭の本体を効率よく伝わってその先端が思う存分に動かしている。それを体に当てはめると、たとえば、立っていて胸を丸く動かすときは、胸そのものに力を入れて動こうとするんじゃなくて、もっとずーと下から、足の裏からくる力をそこに届けて動かすんです。そういう通りのいい体で坐禅する。
 筑波大学で学部生や院生向けに、「東洋的心身鍛錬法」という科目名で集中授業をやっているのですが、そこでいろいろな坐禅教材を全部見せて坐禅につなげていくんです。バランスボールとか綱渡りをやってから坐ってみたりするので、学生さんたちは「運動と坐禅ってこんなに密接につながっているんですか! 」と驚きますよ。
比呂美 人間が生きている最も基本の力で坐る。いいですねえ。
一照 さらにもうひとつ、僕は坐禅の正身端坐ということを考える時、いつも念頭にあるのは「バランスだけで静かに立っている生卵」なんです。僕らは生卵はまっすぐ立たないと思っている。でも指先で卵と密接に対話しながら感覚を研ぎ澄ませて、重力といいバランスで立てる位置を辛抱強く探してあげるとそのうちフッと立ちます。ここにあるのは、木製の卵おもちゃなんですけれど、この木製の卵には軸ってないですけど、こうして独楽(こま)のように回転させると、ほら自分で立ち上がって軸が生まれるでしょ。
 軸が決まるまではゴロゴロとうるさく音が鳴っているけれど、軸がピタッときまると途端にシーンと静かになって澄んでくる。坐禅も同じです。どこが一番いい落ち着き場所かなって辛抱強く繊細に動いて探していて、そこが見つかるとスッと静かになるという感じがあります。いきなりそこに行くのはなかなか難しい。でも丹念に探していると、そうなるんです。つまり動きがだんだん緻密に細やかになる。「坐禅は静止しているのではない」というのが、僕の持論です。それは超微細な運動をしているんです。坐禅という運動です。楽に坐るという運動をしている。あるいは静かに止まるという運動をしていると言ってもいいかな。運動が精妙化して極まったもので、静止しているように見えても中は微細に動いているんです。だいたい死体じゃなくて生きているんだから、呼吸もしているし心臓も動いている。坐禅の中にいろんな動きがあって当然でしょう。でもそれは意図してやっている動きじゃなくて、生きていることのナマの表現としての動き。

カテゴリー: ブログ, 輪読会 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です