藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第18回ーを受けて

【第2章 正しく坐るのも一苦労?】

―――― 「賢い体」の作り方 ―――― から想をえて

 私・鳥羽は、この章を目にして大変反省をさせられました。
 私のような、なまじ先んじて坐禅に取り組んできたものは、どうしても、禅をするときの調身、調息、調心という「坐禅の三原則」が頭から離れず、坐禅を始めるに当たって、先ず形から入る、坐る姿勢を調える、ことに拘ってしまいます。
 そしてそれを、これから坐禅をしてみようとされる方々に対し、一生懸命レクチャーをしてしまっているがために、前回も書きましたが、これから「坐禅に取り組もう」とされている方々にプレッシャーを与えてしまい、私がその方の姿勢を「坐禅向きに整えようと」指導することにより、組んだ足だけに留まらず、その人の体全体の関節といわず筋肉といわず、それらをどれほどこわ張らせてしまっていることか。この章の中で一照さんがおっしゃっておられるように、一ヵ所こわ張らせることにより、それが体全体に影響しているのだ、となると、それは「心」をも‟こわ張らせる”ことになっているのでしょう。それは、これも一照さんがおっしゃっられる「脱力すること(リラックスること)で感受性が高まる」ことにつながっていない。即ち、坐禅への「感性」を阻害していることになっていないか。このことを受けて私は、これまで指導方法を全面的に見直すこととなった次第です。
 この「リラックスることで感受性が高まる」との言葉、私にとりまして非常に理解し易い新たな発見でした。それはそうですよね。禅の修行というのは、人の精神活動おいても最も深い、それこそ深層心理、あるいは阿頼耶識(あらやしき)の淵源を明らめさせ、それを見つめ直そうとする作業ともいえるものです。それだのに、その入り口の段階のフィジカルの面で拒絶状態(体をこわばらせる状態)になってしまっている。それは取りも直さず、メンタル面でも人を頑なにして、それで心の深淵な部分を探ろうなどということ自体、もうその指導した段階で無理筋と言えるのでしょう。
 この文に接して以来、私は、自身では坐る前にできる限り「体をリラックスさせる」ことを心がけ、新しく坐禅に参加される方にもお勧めしております。そして、出来得ることなら、静坐を始める前に、皆で一照さんのように柔軟体操でもしたいと思っているのですが、こればかりは長い歴史(千数百年?)のなかでそんな坐り方をしたことは余りないのでしょう、すでにやっておられる皆さんに受け入れてもらうのはなかなか難しいようです。
 禅がこれほど注目を浴び、多くの人たちに興味をもっていただいているのに、何故に実際に修行を続けておられる方が斯様に少ないのか? 私たちのように坐禅の普及に努め、多くの人たちにその「良さ」を知っていただこうと日々念じているものの一人として、実はその原因は半ば分かっているのです。
 「坐禅は安楽な法門なり」とはいえ、当たり前のことですが、それは決して「安直」とは結び付いていないのです。「続けられないようなら修行なんかするな!」というのが古来からの坐禅の厳然たるセオリーなのです。それは、現代にあっても生きています。それは「続けてみなければ分からない」という禅がのシンプルにして根源的な事実なのです。そして、それが禅を弘める当たってのボトルネックになっている、という自己矛盾にもなっているのです。
 それでも叫び続けたい、「禅をやり続けてみて、けっして後悔をすることはない!」と。禅から得られるものはけっして一様ではありません。そして、その到達点、などというものはあり得ません。「汲めども尽きぬ泉」のごとく、禅は奥深く、そのプロセスは‟それぞれ”なのです。「仏も、達磨も修行中」とは、その尽きない奥深さを言い表している言葉だと思います。ですから、諦めてはいけません。そのプロセスを大事にしていきたいのです。

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