<第72回>藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第19回ー

【第2章 正しく坐るのも一苦労?】
※ 今回は「第2章」の3回目です。
 (この章では、一照さんは「坐禅の坐り方」を丁寧に説明されておられます)

 ―― 重力と仲良く坐る ――

伊藤比呂美 どの坐禅の指導書を見ても「眼は半眼にして、視線を四十五度ぐらいに落とす」と書いてありますが。
藤田一照(以下、一照) 坐禅の時は眼はちゃんと開けているんですよ。外からの他律的にやるのではなくて、リラックスしていたら自ずと半眼になっていく、と言うべきです。まわりの環境条件とやりとりしながら花が内側から咲くように、自然の中から秩序に沿うように。四十五度というふうに決められたところに視線を置くのではなく、眼に自由を与えて、それが落ち着くところに落ち着いたのが半眼ぽく見えるのです。
比呂美 そしたら、坐禅を始めるときに坐ってこんな感じでもぞもぞ動いていても、最初は仕方ないですね。
一照 はい、でも実際はそんなに大きな動きにはならないはずです。外からは見えないぐらいに微妙な動きを通して、各部位が最終的な落ち着きどころを探していきます。より良い坐り方を、探し続ける。重力と仲良くダンスしながら坐っている。重力を作りだしているのは私の重さと、地球の重さとの関係ですからね。
比呂美 考えてみれば、重力って縁起ですよね。
一照 そうそう、物をつなげている重力ってまさに縁起のひとつの現れですよね。重力のお陰で全部くっついているわけだから。重力ってホントに不思議な力です。物と物を引き合わせ、つなげようとする愛の力? 重力はやはり大事です。我々は重力場の中で生まれ、重力場の中で死んでいく。重力の情報って、耳の三半規管とか、全身に散らばっている。そういうのを総合して、バランス感覚、平衡感覚というのがあるわけです。

―― 坐禅は呼吸法ではない ――

一照 眼の位置が落ちついたら、口を軽く閉じて、噛みしめないようにしてください。上の歯と下の歯はくっつかないように。坐禅中はおしゃべりしませんから、舌は下あごにそっと置いているだけでいいです。顎(あご)関節は緊張させないように、体全体をそれとなく見ていて、余計な緊張がある部分に気づいたらそこをどんどんほどいていくようにする。
 口すぼめてゆっくり息を吐いて、鼻から大きく吸ってまた口をすぼめて長―く深呼吸を二~三回してください。で、この後は息もコントロールしない自然な鼻呼吸に戻ればいいんですが、あえて心がけとして言うなら、「吐く息は最後まで吐く。吐き終わった後の息は止まっている間(ま)を逃さない。吸う息は自然に入るのに任せる」ことです。呼吸に関しても「これ以上吐き続けるとやりすぎるな」という感覚や、逆に「今吸うのをやめたら早すぎるな」という感覚とかを手掛かりに無理のないちょうどいい加減の呼吸をする。
比呂美 吐く息が大事ということは、なるべく長く吐く方がいいんですか。
一照 最初から「これだけ長く吐こう」とは思わないで、毎回「今回の吐く息はどのくらい続くんだろう」という好奇心で。長いとか短いとかは人間の作った人為的な尺度だから気にしなくていいんです。吸う息が自然に終わるのを待って、その後に訪れる次の吐く息が始まるまでの間を大事にする。
比呂美 数を数えなくていいんですか。
一照 道元さんの坐禅の場合は息を数えたりしません。坐禅は呼吸法ではありませんから、呼吸を特別視してそれをどうこうしたりしないんです。呼吸は大事なものだけどあくまでも坐禅の一部でしかない。体がマイペースに吸ったり、吐いたりするのに任せておくのが原則です。とにかくどの感覚も遮断せず、入ってくる情報をただ均等に偏りなしに受け入れていく。
 それからいろんな思いとかイメージが、浮かんでは消え、現れては消えていきますけど、それも無理に起こそうとしたり、また消そうともしない。追いかけもしないし追い払いもしない。浮かぶに任せ、消えるに任せている。
 道元さんは「端座して時を移さば、即ち祖道なるべし」と言っています。正しい坐禅の姿勢で坐って、ただ時が過ぎていくままにしておけば、それはそのまま仏道であると。こうやって坐っていること以外に特別なものがあるわけじゃないと言ってます。
 でも実際にはそういうことに抵抗するものが、僕らの中にはたくさん生まれてくる。これは時間の無駄じゃないかとか、何の意味があるかとか、いろいろ抵抗が出てくるけど、それもまた坐禅の一風景として見ながら坐る。浮かんできても構わないから邪魔にしないでそこに置いといて……。
比呂美 背中がだんだん丸くなるような気がするんですけれど。
一照 それがほんとうに楽だったら、それでいいですよ。どうしても坐禅だと背中をまっすぐにしなくっちゃいけないと思い込んで、無理に背筋を伸ばし続けたりする。あるいは腰をグッと入れたりする。本人には「オレはしっかり頑張って坐禅をやってるぞ」みたいな自己満足感はあるけど、それが必ずしも体にとって正しいとは限らないんです。長い時間坐っていると、どうしても体のどこかに負担がかかってくる部分が出てくる。
比呂美 我慢するのとは違う?
一照 我慢ではなくて、痛みやかゆみとしばらく一緒にいる練習をしてみよう、というふうに考え方を変えるといいですね。すぐに逃げ出そうとしないでほんのしばらくでいいから付き合ってよく観察してみるんです。

 ―― 人間やめて、仏になる ――

一照 坐禅の主役になるのは、脳と手足じゃなくて体幹で、その中にあるいわゆる五臓六腑(ごぞうろっぷ)というやつです。我々の命を一刻の休みもとらずに活かし続けている内臓たちが主役です。僕らは普段当たり前だと思って、呼吸とか、肺とか、心臓とか。そういう生命の働きをみんな「俺」のために使っているでしょ。内臓は生物学の勉強をしたらわかるように、宇宙の、自然のリズムと共鳴しているものですよ。それを静かに聞いているのが坐禅。
比呂美 人間の都合ではなくて、自然のリズムに共振するんですね。
一照 いわば坐禅は大自然からお借りしたものを全部お返ししている、きわめて宗教的な営みなんです。いわゆる供養ですよ。「私」という命を仏=大自然に供養している。供養とは何かにへりくだって供物を捧げることだけど、僕らは自分のものだなんて主張できるものを何ひとつ持ち合わせていません。自分自身を供物にしようにも、それもまたみんな自然から借りているものです。俺が何かを所有するという「所有モード」の生き方をここで一応棚上げして、ただ存在しているというベーシックな次元に帰るというのがこの坐禅の姿勢です。他の存在するものと同じレベルでただ存在する。如の一部として単純に存在している。それが本来の私の在り方であって、その時には「人間をやめている」と言ってもいいです。人間やめたら何になるかというと、仏になっている。
比呂美 それが如来?
一照 如につながったら如来です。人間だけがそれから浮き上がったような夢を見て生きている。でも人間活動というか生活行為をやめると、夢から覚める。つまり仏になる。世界はこんなに静かで平和なのにオレだけなんでこんなにうるさいんだろうという嘆きみたいな。情けないというか恥ずかしいというか。オレがいなかったらもっと静かなのに、と。
比呂美 坐るというのは、その調和に自分も参加する感じですね。
一照 調和にチューニングして参加する。みんなと一緒にただ謙虚に存在して息づいている。人間の適応のための生活活動をいったん保留して、ただ「生きている物」になっている。生活活動って、「我」が生じてから、我が自分を維持するための戦力の展開として始まっているんですね。それを人間はやめることができないんだけど、唯一坐禅することでやめられる。保留状態にできる。

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