藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第19回ーを受けて

【第2章 正しく坐るのも一苦労?】

―――― 重力と仲良く坐る ――――
―――― 坐禅は呼吸法ではない ――――
―――― 人間やめて、仏になる ――――
から想をえて

 坐禅は、言うまでもなく仏教の一派です。ですから、仏教での教えはすべて禅宗にも当てはまります。
 仏教では、この世はすべて真如に満ちている、という考え方があります。「真如」とは、端的に「あるがままの姿」であり、そのあるがままの姿が真実の姿そのものである、という言い方がされます。その真如から現れたものが「如来」(如から来たもの)であり、それは取りも直さず「仏陀」をさします。また、「如」は、この地球を含めた宇宙全体の法則、とも解されています。
 なぜこのような七面倒臭いお話をしたかと申しますと、この章の「重力と仲良く坐る」という、その‟重力”の意味を皆さんと共有したかったからです。
 坐禅は、上述の「世はすべて真如に満ちている」ことと一体となることとは、体を動かすこと、手足を使って何かをすること、をすべて放棄し、その究極においては頭で思考することをも全面的に払拭することにより、即ち、(誤解を恐れずに申し上げれば)我が身を一つの物体となることで「真如と一体化する」ことを説いていますが、ここでは一照さんは「重力と仲良くする」というふうに喩えておられるようです。
 そして、この文章の最後の部分の「人間やめて、仏になる」で、自分の体にあるもの、体の臓器や手足、脳に至るまですべてが自然界と一体になって(「如」を具現するものとして)機能しているのであって、決して‟自分”のためのものではない、としています。そしてそれらの機能が、日々の生きていくなかで「自然と一体にあること」が望ましく、それを体現するのが「坐禅」である、というのです。
 これらのことは、これまでの章の中で一照さんが盛んに述べておられる、坐禅の体勢をとるときに決まった型に体を合わせるのではなく、どこか筋肉や関節に無理がはたらくことがなく、体幹さえしっかりしていれば身も心もリラックスさせて、呼吸も自然に任せてやる、という一照さんのコンセプトが、この「自然と一体となる」ことと見事に符合します。
 
 ところで、「坐禅は呼吸法ではない」ということについてですが、比呂美さんの「数を数えなくていいんですか」という質問に一照さんは、「道元さんの坐禅の場合は息を数えたりしません。坐禅は呼吸法ではありませんから、呼吸を特別視してそれをどうこうしたりしないんです」とお応えになっております。ここで私は、禅宗の中の宗派の違いについてあまり論及する積りではないのですが、道元さんのお名前が出てきたことからもわかるように、一照さんは曹洞宗系の修行をされておられます。
 私たち市川静坐会では、臨済宗系での形をとって坐禅をしております。臨済宗では、普段の坐禅中には「数息観」といって、自分の息を勘定します。吸って吐いての一呼吸を「ひと~つ」、その次の呼吸を「ふた~つ」というふうに勘定していきます。それは、自分の呼吸に集中を向けて三昧力を養うことを目指してやるのです。ところが、曹洞宗系ではこれを致しません。ひたすら坐る「只管打坐」に徹します。そこで一照さんは「呼吸を特別視」しません、とおっしゃいます。
 確かに「坐禅は呼吸法ではありません」ので、呼吸を数えることだけで完結してしまってはいけないかもしれませんが、禅宗では曹洞系、臨済系を問わず「息」というものを非常に大事にします。それは呼吸が、心臓の鼓動と同じように人の生命維持に直結する動作であり、「心臓の鼓動」は自分の意志ではコントロールできない動作(不随筋の動作)であり、一方、「呼吸」は止めることはできないにしてもある程度自分の意志でコントロールできるものです。
 そして呼吸は、体のいろいろな箇所に(単に酸素を送り込むだけではなく)いろいろな作用を及ぼしていることは皆さんもよくご存じのことです。更には、呼吸は「気」という言葉と表裏となり、心にもたいへん作用を及ぼします。「呼吸(気)が荒くなる」「呼吸(気)を鎮める」「大きく息を吸う(気を大きく持つ)」などと、呼吸をコントロールすることで心をコントロールすることに利用されています。前にも触れましたが、坐禅の三原則として「調身、調息、調心」というのがあり、これは曹洞系、臨済系ともに坐禅を組む際の必須要件として言われます。ことほど然様に「息」というもののその大事さにおいて、坐禅も例外ではないのでしょう。
 「坐禅は呼吸法ではない」ことは紛れもないことではありますが、然は然り乍ら、坐禅をするに当たって最も大事な「三昧力」の養成には「数息観」が非常に有効であることは、これまた紛れもないことではないではないでしょうか。これは私が臨済系だから、ということではけっしてない積りです。重ねて申し上げますが、数息観をやることは、呼吸に集中するためのもので、そこまでで帰結してしまうものではありません。あくまでも「その先にあるものを遠望して」それを目指して、そのツールとしてやるのです。そして、その先は果てしがないのかもしれませんが、その時々でその‟ツール”を利用して歩を進めていくのではないでしょうか。それ故、呼吸をないがしろにすることにはあまり賛同できません。

カテゴリー: ブログ, 座禅 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です