藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第20回ーを受けて

【第2章 正しく坐るのも一苦労?】

 ―― 眠気とタンゴを踊る ――
 ―― 雑念が湧いてきたら・・・ ――
 ―― 悪魔が消え去る方法 ――
から想をえて
 
 ここで藤田一照さんは、「坐禅で“正しく”坐るということはどういうことか」ということを極めておられます。伊藤比呂美さんが最後に感想で述べられている、「こうやって私たちが生きてきたことをそのまま、ここで肩の力を抜いた状態で坐れればいいんだというのがスッと入ってきた」という言葉の中に、その集大成が如実に言い表されています。
 そうです。たとえば坐禅をしているときの2大悪弊とみられる「寝ることと、考えにふけること」は、どうしても避けがたいのですが、それらと「戦って」もいけないし「呑みこまれ」てもいけない、それらと「一緒にいるという第三の道」を探りなさい、「それが何であれ今生じていることから目を逸らさない。それを「何とかしよう」と押し返すのでも、「もうダメだ」と呑み込まれて流されてしまうのでもなく、自分のバランスを保ちながらなるべく長くそれに触ってつながっていることです」と一照さんはいわれます。そして「おもわず眠ってしまった」、あるいは「坐っている間いろいろな考えが浮かんできてどうしてもそれを払いのけられない」と言って、自分を責めてはいけない、とも言われます。そうなってしまって「自分は坐禅に失敗したんだとかそういうふうに物語を作らない」ことが重要なのかもしれません。そういうときというのは姿勢が崩れているから、姿勢をリセットして心機一転坐禅に帰る。坐禅は外れたらまた出直すということをその都度辛抱強くずっと繰り返すことだ、ということです。
 坐禅というのは、「寝る」とか「考える」とか、そのほかいろいろなものを、その都度ひっくるめた全部が「坐禅の展開」なのだから、それらを「選り好みしないで全部」受け容れなさい、とのことです。
 一照さんは、澤木興道老師の「坐禅というのはお母さんの体内にもう一度入るか、棺桶に入って、あらためて人生を考え直すようなものだ」という言葉をひきます。それは、「もう人生が終わってしまったところから人生を見直してみる」さらに「人生が始まる前と人生が終わってから、その立場で人生を考え直してみるようなもの」ということをする。「人生の中にいたら人生はわからない。外の視点から見て初めてわかる」ものだから。
 そこで一照さんは、ご自分の体験を交えて解説されておられます。「僕も安泰寺で坐っているとき、世の中のみんながある方向に向かってだーと走っているというのに、僕はそこから取り残された感じでじっと坐ってる。友達が出世するとか結婚したとか、ちゃくちゃくと人生をきづいているのに、僕はここで壁に向かって坐禅しているけど、それでいいのか? 」と思わざるを得ない。「一応そういう覚悟をして出家したとはいえ、まだ心の中に世間がだいぶ残っている」。そういうものは、「出家したから」あるいは「坐禅しているから」といって「自動的になくなるわけじゃない。むしろそういうものとちゃんと向きあわざるを得ない。そういうものを抱えて坐る」。そういうものを「止めようとしないで」それらを「もっと広く大きな部屋の中に入れておけばいい」。その「広い部屋」は、入るのも自由、出るのも自由、「坐禅をそういう、心の風通しの良い、安全で自由な広い空間みたいなものに育てていく」ことを目指すのだ、ということです。
 お釈迦さまも静坐中は、悪魔にいろいろ(恐怖心、性欲、疑い、権力欲、名誉欲、プライド等々)誘惑された。そして悪魔は、静坐をら諦めさせようとろいろな手練手管を使ってくる。私どもも坐っているなかで、内容こそ違え、同じようなことを履修しています。それは「失敗どころか宗教的には貴重な体験なん」だとおっしゃいます。
 それらの「悪魔の誘惑」に対しお釈迦さまは、「悪魔よ、私はお前がそこにいることを知っているよ」と一言と言っただけでした。「正体がわかっている。ちゃんと気づいているということ。だから坐禅のときにそういうのが現れても、失敗ではない」。「否定せずにウェルカムする」。
 最後に伊藤比呂美さんは、冒頭にあげた言葉とともに、「私は、坐禅というのは苦行だとばかり思っていた」けれど違っていた。「やってみて、すごく楽しかった」とおっしゃいます。そこで一照さんは、坐禅というのは「安楽の法門」という道元さんお言葉をひいておられす。

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