4月 18日 松原泰道著 『公案夜話』-第13回〔趙州洗鉢〕

 ――― 趙州洗鉢(じょうしゅうせんぱつ)—足もとにある真実 ―――

 「趙州洗鉢」は、趙州和尚が新参の修行僧に対し与えた公案です。元の言葉では「喫粥(きっしゅく)し了(おわ)るや未(いま)だしや、鉢(はつ)孟(う)洗い去れ」というものです。意訳すれば「朝食はすんだか、鉢を洗ったか」(僧堂や修行道場では朝食に〔お粥(かゆ)〕を食べるのが通例です)というものです。
 なんとまぁ、大変日常的な在り来りの言葉でしょうか! しかし、この〝日常性〟こそがミソ、この趙州和尚の公案の眼目となるところです。
 この間のやり取りは、趙州和尚の下を新参の雲水が訪ね「私はまだ叢林(そうりん)に入ったばかりの新参者です。そうぞご指導下さいませ」と口上します。
 ※ 叢林=木が青々と茂っているのを「叢林」といいます。転じて、中国でも日本でも、多くの修行者が師の許に集まって坐禅をしたり修行する場を叢林と呼んでいます。
 この雲水は、大禅師の趙州和尚からいろいろ教えを受けられることに、そしてその教えの内容については深淵崇高な特別なものを期待しております。ところが、それに対する趙州和尚の答えが「朝食はすんだか、鉢を洗ったか」だったのです。
 「禅の修行」というと何か特別な作業であり、そこから得られるものは次元の異なる気高いものを想像しがちですが、禅修行から得られる真理は日常生活の一齣々々と不二一如(表裏一体)をなしており、またそれらを疎かにして禅修行から何かを得られたとはとてもいえません。
 この趙州和尚の問いに対し、新参の雲水は「はい、朝食は頂きました」と素直に答えます。そこで趙州和尚はそれに畳みかけて「それなら食器を洗っておきなさい」と勧めます。趙州和尚は〝真実〟というものが、日々の動作の中にあることを諭そうとしています。
 

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