5月 16日 松原泰道著 『公案夜話』-第17回〔盤山精肉〕

 ――― 盤山精(底)肉(ばんざん<てい>にく)—どこに悪があるのか ―――

 この語は、『五灯会元』という禅書に出てきます。難解ではありますが、ご参考までにその和訳を挙げておきます。
  
  幽州(ゆうしゅう)の盤山(ばんざん)の宝積(ほうしゃく)禅師 因(ちなみ)に市肆(しし)を行く。一客人の猪肉(しょにく)を買うを見る。屠家(とか)に語って曰く、精底一斤(せいていいっきん)を割(さ)き来たれと。屠家刀を放下(ほうげ)して曰く、長吏(ちょうり)那箇(なこ)か是(こ)れ精底ならざると。師(し)之(これ)に省(せい)あり。

 これを松原泰道さんの翻訳でご紹介しますと、馬祖道一禅師(中国、600年代から700年代の人で、その下で多くの名僧は輩出した人として有名です)の法を継いだ宝積(ほうしゃく)禅師が「ある日、盤山が商店街の肉屋の前を通りかかると、大声で肉屋のおやじが客と議論しているのが聞こえてきます。見ると役人風の男の客が、おやじに『いのししの情肉のところを××斤たのむ』と注文した。おやじは『毎度ありがとうございます』と答えるだろうと思っていると、なんとこのおやじは江戸っ子気っぷの職人気質(かたぎ)だったのです。包丁をまな板の上に放り出して『だんな、上肉をよこせとおっしゃるが、一体、どこに上肉でない肉があるとおっしゃるんですか?』と、腕を組んで客に反論します。」
 「この反論をその店先を通り過ぎるときに、聞くともなしに、ちらりと耳にした盤山が、はからずも、自分に本来具わっている仏性(純粋は人間性)をさとった、というのです。」そして、「『盤山は、どのようにさとったか?』というのが、この公案です。」
この肉屋の主とそのお客とのやりとりは、「禅の公案」として取り上げられている以上、非常にシンボリックな内容を表しています。それは、私どもの日常生活を考えたら、このお客の「肉の〝いいところ〟をおくれ」というのは至極まっとうな物言いですが、これを禅の公案の視点で見ますと、肉屋の主の「うちで扱っている肉のいったいどこの〝いい肉〟と〝悪い肉〟があるというのだ」という、いわば開き直りの物言いが生きてくるのです。
 私たちは日頃、物事を相対的に見るクセが常となっています。「何時もものごとを相対的に比べて、好き嫌いをしたり選り好みをして、自分の気に入ったものを価値づけます。自分の好みに合わぬものを捨て、好みに合うものに執着する」ことにより、「善悪・好悪などに分類が嵩(こう)じると、主観が入りすぎて正しい判断ができなく」なってきて、「人生の標準が次第に狂ってくる」ことになるのです。
 先に「日常的には至極まっとうな物言い」と書きましたが、ここでは、日常化され、常態化され、私どもが当たり前と思い込んでいる「相対的なものの見方」というものを問題視しているのです。善悪・好悪などの〝主観的判断〟が嵩(こう)じると「正しい判断ができにくくなり」、強いては「人生の標準が次第に狂ってくる」ことになるのです。
 さらにこの公案を拡大していくと、「だれもが等しく持つ仏心(純粋な人間性)」それを凝視することにより、どんな物(どんな人)にも必ずその存在価値がある、という仏教独特の世界観(人間観)が秘められているのです。

カテゴリー: 輪読会 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です