6月 6日 松原泰道著 『公案夜話』-第20回〔丹霞焼仏〕

 ――― 丹霞焼仏(たんかしょうぶつ)‐ 真実の仏に出会う ―――

 この公案の元となる話の顛末はこうです。
 中国・唐代の禅者の丹霞天然(たんかてんねん)は、ある日、河南省の東京(とんきん)にある慧林寺(えりんじ)を訪れます。
 その日はとても寒い日で、身も凍りそうでした。そこで丹霞は仏殿(仏像を安置して拝礼する建物)から木彫りの仏像を持ち出してきてそれを燃やして暖をとるのです。それに出くわした慧林寺の院主(いんじゅ=寺の諸事を取り仕切る最高責任者)は、当然ながら血相を変えて丹霞の暴挙をなじります。ところが丹霞は、手にしていた杖で残りの灰を探りながら、「舎利(しゃり)を求めるためだ」と答えます。舎利とは、梵語(ぼんご)シャリーラの音写で身体の骨のことで、特に仏や聖者の遺骨を指します。
 そこで院主は、「お木像に舎利などあるわけがない」と反駁します。すると丹霞は「舎利のない仏さまなら、ただの薪と同じだ」と、仏殿から更に別の木像を取り出して燃やすのです。
 後日、この仏像を焼いた丹霞には何の咎(とが)めもなく、かえって丹霞を難詰したその院主が咎められたというのです。この公案のテーマは「仏像を焼いた丹霞の行為の意とするところは何であるか」ということになります。

 そこで、松原泰道さんの解説を聞かせて頂きます。
 『五灯会元』という禅書に、「趙州和尚の三転語」というのが載っています。「金仏(きんぶつ)炉(ろ)を渡らず(金属製の仏像は溶鉱炉で溶ける)・木仏(もくぶつ)火を渡らず(木像は火に焼ける)・泥仏(でいぶつ)水を渡らず(土でこねた仏像は水にとける)」というものです。「転語」とは迷いを転じてさとりを得させる語句のことで、この場合、三つあるから「三転語」というのです。趙州和尚は上記の三転語を修行者に示して、最後に「真仏屋裏(しんぶつおくり)に坐す(真実の仏は屋内に坐っている)」といいます。屋裏(屋内)は心の中のことで、真仏(真実の仏)は仏像や絵像(えぞう)ではなく目に見えない法(真理)のことです。
 更に松原泰道さんは、日本の昔話から、
 「昔、北国のある村に大雪が降った翌日のこと、村の子どもたちが、村はずれにある薬師堂から、大きな木像のお薬師さまを引き出して雪の上に押し倒し、お木像を橇(そり)にして遊ぶのです。子どもたちの歓声に村の大人たちが出てみてびっくり。小さな子どもをお木像にまたがらせ、兄貴分の子どもらがお薬師さまの首にひもをかけて雪の上を走っているのではありませんか。大人らは血相を変えて子どもを叱りつけ、お木像を清めてもとのお堂にもどし、お供物を供えてねんごろに供養して、お薬師如来におわびを申しあげます。堂の入り口には厳重に施錠をして子どもの入れないようにしました。
 翌日、村人が薬師堂を見廻りますが異常はありません。ホッとして灯火をともしてお像を仰ぐと、お薬師さまのおん目から涙が流れています。村人ははっとして、昨日の子供らの無礼を怒っていらっしゃるのだと恐れ、床にひれ伏して、自分たちの怠慢をおわびするのです。するとお薬師さまは『そうではない、わたしは子どもと遊べないのが悲しいのだ――』と、おっしゃったというのです」、というお話を引かれています。
 薬師如来の木像が、お堂の中に安置されっ放しでなく、いたずらっ子の橇になったところに、この木仏の真骨頂があるのです。

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