6月 13日 松原泰道著 『公案夜話』-第21回〔麻谷風性常住〕

 ――― 麻谷風性常住(まよくふうせいじょうじゅう)― 目に見えない風を見る ―――

 中国の宝徹(ほうてつ)和尚という人は馬祖道一禅師の法を継いだ人で、山西省の麻谷山(まよくざん)の山中の寺に住していたので麻谷和尚と呼ばれていました。
 真夏の暑いある時、麻谷和尚は扇を盛んにあおいでいました。その麻谷和尚もとを一人の雲水が訪ねて問います。原文ではこうです。
 麻谷徹(まよくてつ)禅師、一日扇(おうぎ)を使う次(つい)で僧あり問う、風性常住処(ふうせいじょうじゅうところ)として周(あまね)からずと云うことなし、和尚 甚麼(なん)としてか扇(おうぎ)を揺(ゆる)がす。師曰く、汝只風性常住なることを知って且(か)つ処として周からずと云うこと無きことを知らず。僧曰く、作麼生(そもさん)か是れ処そして周からざること無き底(てい)の道理。師却って扇を揺がす。 (『連灯会要』四)
 やや難解ですので松原泰道さんの口語訳をお借りします。
 「風はいつどこにでも存在します。風の無いところはないはずです。なのに和尚は、どうして扇を使って風を起こしているのですか」
 それに対し麻谷和尚は、
「君は、風はいつ『どこにでも存在する』ことは知っていても、『風の無いところはない』ということを知らない」
と答えます。そこで雲水は更に、
 「『風の無いところはない』とはどういうことでしょうか」
と食い下がります。
 これ対し和尚は、かえって扇子を一層ハタハタとあおいだ、というのです。
ここで言う「風」とは、人が生まれながらに持っている「仏性」の例えになりますが、この辺を松原泰道さんの解説をお借りして説明しますと、
 「風は常に存在するのだから、扇子を使わなくても涼しいはずだ(仏性は誰にもあるのだから、扇子を使わなくても〈修行しなくても〉救われるはずだ)」
 「君は仏性の常住(常に存在する)の道理だけを知って、処として周からざるなき(今・ここに風がある・仏性が存す)道理を知らない」
 「処として周からざるなき(今・ここに風がある・仏性が存す)ことが、どうしてわかりますか?」この弟子の執拗な食い下がりに対して、和尚は黙って扇子をかえって激しくあおいだのです。
 ここまで、この市川静坐会の輪読会のご紹介のブログをある程度ご覧になられていた方ならば、お察しされるとは存じますが、この、和尚が「扇子をあおぐ」という行為は、まさしく「禅の修行をする」ということです。
 これは「風」、すなわち「仏性」は誰にでも具わっているには違いないが、「今自分にも備わっている」ということを自覚するには、それ相応の努力(修行)をせねばならない、ことであり、だから「たゆまぬ努力を続けなさいよ」ということになります。

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