6月 27日 松原泰道著 『公案夜話』-第23回〔洞山無寒暑〕

 ――― 洞山無寒暑(とうざんむかんしょ)- 暑さ寒さに徹し切る ―――

 これは、『碧巌録』という、禅の書の中でも最高峰といわれる禅書に出てくる文章です。

 僧、洞山(とうざん)に問う、寒暑到来(かんしょとうらい)、如何(いか)が回避(かいひ)せん。山(さん)云(いわ)く、何ぞ無寒暑の処に向かって去らざる。僧云く、如何なるか是れ無寒暑の処。山云く。寒時(かんじ)は闍黎(じゃり)を寒殺(かんさつ)し、熱時(ねつじ)は闍黎を熱殺す。

 ここに出てくる洞山良价(とうざんりょうかい)禅師は、前回(2015・6・21の分)の洞山禅師とは別な人で、すなわち中国には洞山という名の優れた禅師が二人居た、ということです。
 ある修行僧が洞山禅師に「寒さ暑さがやってきました。どうしたらこの寒暑を避けられましょうか」と問います。
 それに対し洞山禅師は、「なぜ、寒さ暑さのないところへ行かないのだ」と至極もっともな答えをします。
 そこでさらに修行僧は、「寒さも暑さもないところとはどんなところですか」とたたみ掛けます。
 すると洞山禅師は「寒いときには寒さに、熱いときには熱さに成り切ることだ」と指摘します。
 ここに出てくる「闍黎(じゃり)」とは、元は梵語(ぼんご=サンスクリット語)のアーチャーリアの音写(外国の言葉を漢字で表記すること)の阿闍黎(あじゃり)の略語で、中国では修行僧に対する「あなた・君」ぐらいの意味です。ちなみに日本では「阿闍黎(梨とも)」は僧職を言い表します。
 ここで言う「寒・暑」について、松原泰道さんの文章をお借りします。「この公案の『寒暑』は、気候から受ける〝寒い・熱い〟の感覚ではありません。私たちが生きている限り必ず出会わなければならぬ生き死にをはじめ、愛憎・貧富・苦楽などの一切の煩悩(心身を苦しめる好ましくない精神現象の総称)や苦悩を表現して『寒暑』といっているのです。したがってエアコンディショナーの操作や、避寒や避暑によって寒熱に遭わずにすむというものではありません」。そして、「寒熱は実在する苦悩ですが、それを耐えがたいものとするか、リードするかは自分の側にあります。氷点下の山野でスキーを楽しんだり、炎熱の球場で野球に熱中しているときは、寒暑を意識しながら苦悩を感じない事実に、何か学ぶ必要があるようです。それは寒熱に対立せずに寒熱に徹し、同化するからで、洞山のいう『自分を熱殺し寒殺する』からに外なりません」と説かれます。
 戦国時代のドラマなどで見かける逸話ですのでご存知の方も多いと思いますが、(松原泰道さんの文章から)「天賞十年(一五八二)、甲斐(かい=山梨県)の恵林寺(えりんじ)が、織田信長の軍に包囲されたとき、快川国師(かいせんこくし)は、山門楼上(ろうじょう)で『安禅(あんぜん)は必ずしも山水(さんすい)を須(もち)いず。心頭を滅却すれば、火自(おの)ずから涼し』と唱えて、弟子たち百余人とともに猛火に焼かれて亡くなりました」というのがあります。そして松原泰道さんは、「『心頭滅却(頭も却もともに助辞で意味はない)』は、寒暑・苦楽といった対立的な考え方を、逃避することなく、対するものに同化し徹する、つまり昇華することです。すると暑(熱)いがままに、苦しいがままに、そこに身も心も落ちつける機能が生まれるのです」と言われます。
 さらに松原泰道さんは結びとして、「病死もあれば、思いがけない事故死もあります。『恰好(かっこう)よく死のう」など死までデザインする必要はありません。どんな死に方でもいい、その人自身に深く任せきるものがあるなら、死は死にまかせ『苦しみもだえて死ぬことも、たくまぬ(自然にそうなる)うるわしい死に方だ』と、南禅寺管長故柴山(しばやま)全慶(ぜんけい)老師は私に教えて下さいました。また圓覚寺の故朝比奈(あさひな)宗源(そうげん)管長も『つらかったら、つらいつらい、苦しかったら、苦しいな、といって死んでいいのです』といっておられます。要は寒暑に徹し切れるか、まかせ切れるかどうかということが決め手になるようです。
 人生論からすれば、熱いときに涼しいときを思い浮かべたり、苦しさと楽しさとを比べたりすると、寒暑や苦悩がひとしお耐えられなくなるものです。要は現実と夢想とを比較することなく、現実の問題にどんな小さなものでもいい、価値なり意味なりをみつけましょう。こうした心の機能(はたらき)が苦悩を和らげてくれます」と言われます。

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