7月 4日 松原泰道著 『公案夜話』-第24回〔庭前柏樹子〕

 ――― 庭前柏樹子(ていぜんはくじゅし)― 禅の神髄とは何か ―――

 これは、『無門関』という、禅書に出てくる公案で、禅の世界では大変有名なものです。

 趙州(じょうしゅう)、因(ちなみ)に僧問う、如何(いか)なるか是れ祖師西来意(そしせいらいい)。 州云く。前庭(ぜんてい)の柏樹子(はくじゅし)。

 という、非常に短いものではありますが、多くの禅修行者が大変苦労させられる公案です。
松原泰道さんの解説をお借りして説明しますと、
 「趙州和尚は、本書に度々登場する趙州(じょうしゅう)従諗(じゅうねん)和尚(八九七年没)です。祖師とは、ここでは達磨大師です。西来意は、字の表面の意味は『(達磨が)西天竺(てんじく=インド)から中国に渡来した目的』です」。そして「祖師西来意」とは「達磨大師が危険を冒してまで中国に来なければならなかったその意義・目的は何か」ということで、これは「その意義・目的は仏法の奥義、禅の真髄ですから、問いのぎりぎりの意味は『禅の神髄とは何か?』となります」。この問いに対し趙州和尚は「『庭前の柏樹子(庭前の柏の樹)』と全く見当違いの答え」をしますから、「質問者はもちろん不満です」。
 趙州和尚の語録を集めた禅書によりますとこのやりとりは、「趙州の『庭前の柏樹子』の解答に不満な修行僧は、『和尚よ、境(きょう=外界に存在するもの)を以って人に示すことなかれ』と反ぱつします。趙州和尚の居る観音院は一名〝柏林寺(はくりんじ)〟といわれるほど境内一面に柏の樹が茂っています。そんな外界にあるものを持ってきて『禅の神髄だ』などといわれては困ると修行僧が怒るのは当然です。クレームとつけられた趙州は『いや、わしは別に境で人に示していない』と端然としています。
 そこでかの修行僧はあらためて全身に力をこめて質問しなおします。『如何なるか、これ祖師西来意』。師(趙州)曰(いわ)く『庭前の柏樹子』と。修行僧が再解答を求めても、趙州の答えは『庭前の柏樹子』と少しも変わりません」。
 これは決して、「『法華経』に『諸法実相(しょほうじっそう=すべて存在するものは、みな内にある真理の外に表れた相<そう>である)』とあるから、庭さきの白樹もまた仏性(仏の心)の表れである」というような「宗教哲学的な観念の坑(あな)に入って出ないのを禅は嫌います。なぜなら、禅は思想や観念から入るのではなく身体からは入っていく」ものですから。「現代の私たちのものの考え方は、欧米式の知性を基にして、身体で体験しようとしません。主知的な理解が先行するから、身体から入ってテーマと同化し、溶け込んで納得する禅の生き方が理解しにくいのです」、と指摘されています。
 また松原泰道さんはもう一つ、江戸前期の俳人、上島鬼貫(かわじまおにつら)の逸話を例として挙げておられます。鬼貫は禅の造詣(ぞうけい)も深かったそうで、ある時、鬼貫の禅の先生である空道和尚から「如何なるかこれ、汝が俳眼(俳句への認識)」と問われます。鬼貫はふと庭を見やって「庭前に白く咲いたる椿哉(かな)」と詠います。これは決して「庭前の柏樹子」の模倣ではなく、鬼貫が言うところの『白椿』だからこそ意味があるのです。言い換えれば、鬼貫も趙州和尚と同じ心境だからこう述べたのでしょう。

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