7月 11日 松原泰道著 『公案夜話』-第25回〔婆子焼庵〕

 ――― 婆子焼庵(ばすしょうあん)― 愛欲を超える道 ―――

 この禅語が伝える言葉の意味は、禅の世界にしては非常に珍しい、中国に伝わる色っぽい昔話から発しています。
 昔、あるところに一人のお婆さんが、若くて美しい娘と二人きりで住んでいました。このお婆さんは、よほどの仏教信者だったのでしょう、二十年このかた一人の仏教修行者のために小さい庵(いおり)を建てて寝食の世話をして、彼の修行を励ましていました。
 ある日、この老婆は何を思ったか、いつも修行者にお給仕をする娘によくよく言い含めます。そして娘は、その給仕をするさい老婆にいわれた通り色仕掛けで修行者を誘惑しようとして彼にしなだれかかり、めんめんと愛をささやくのです。
 ところが、その修行者はそのような娘に対して、「枯木(こぼく)寒巌(かんがん)に倚(よ)る、三冬(さんとう)暖気(だんき)無し(枯木が凍りついた岩により添ったようなものだ。真冬の最中に暖気などあるわけがないように、私には色気など全くない)」と、娘を拒絶します。恥をかいた娘は戻ってきてそのいきさつを老婆に逐一報告をします。すると老婆は「なんということだ。私ともあろうものがそのような者に二十年もの間供養をしてきたのか!」と腹を立て、その修行者を追い出すと共に彼のために建てた庵も焼き払ってしまします。
 この老婆の怒った真意は何か、「女を抱かないのも不可、抱くのも不可。あなたならこのときどうするか」、というのがこの「婆子(ばす)焼庵(しょうあん)」の公案の求めているところです。
 松原泰道さんの文章から、臨済宗妙心寺派管長だった山田無文老師(1988年没)が、あるとき電気機械関係の企業の「電気と禅気」という講演会で、この「婆子焼庵」の公案をテーマに電気に因んで興味深く話をされています。
 「娘が修行者に、なまめかしい行動に出たのは、電気なら放電です。修行者がそれに応じたら感電で、破戒(戒めを破ること、特に、僧が戒律を破ること)者として感電死してしまうでしょう。修行者が〝枯木寒巌に倚る、三冬暖気なし〟と微動だにしないのは、〝わたしは、電気が伝わらない絶縁体だ〟といったようなものです。感電しないのは結構ですが、私たちは生きているのですから絶縁体では困ります。愛情にぴりぴり感電してもいけない。感電しないゴムやエボナイトのような不導体では人間ではありません。さあ、あなたがたならどうなさるか、承りましょう」と、聴講者をけしかけたそうです。
 原始仏教ではその修行者が、人間にさまざまな煩悩が起るのは、煩悩を宿す肉体に原因があるとして難行苦行をして、肉体を枯木や死灰(しかい=火の気のない灰)のように生気を去り、滅智(めつち=知的活動を止める)して心身の平静な状態(涅槃=ねはん)に入るのを理想としたそうですが、この昔話の修行僧は原始仏教の思想を具体的に表現します。
 性欲本能に負けて自滅する感電死は空しい一生ですが、かといって人情の通じない絶縁体のエボナイト人間になったら人間失格です。この公案は、老婆と娘と修行僧とを登場させて、大乗仏教の思想を語らせているのです。つまり、真実の修行は人間の本能を断ち切ることでなく、本能を整理することです。かの老婆は、その境地を修行者が得たであろうと期待したのですが、老婆の意に反した修行者は、素朴な本能抑圧の「枯木寒巌」の絶縁体であることを誇りとしているので老婆は怒ったのです。
 山岡鉄舟(1888年没)は、幕末から明治初期にかけての政治家で明治維新の功労者です。剣と書道に勝れただけでなく禅者としても有名です。鉄舟の主治医の千葉(ちば)立造(りゅうぞう)は鉄舟を尊敬して、鉄舟について禅を学んでいます。立造はあるとき、本当に禅を修行するには性欲を断たねばならぬと決心した旨を鉄舟に述べると、鉄舟は「その決心は結構だが、どのような手段で性欲を絶つつもりか」と問います。立造は「私は今から一生を終わるまで妻を遠ざけて情事を行いません」と答えると、鉄舟は「それは情欲を断つのではなく、ただ抑えるだけで、〝臭いものには蓋(ふた)をする〟類ではないか」と指摘します。「では、どうしたら欲情を解決できるでしょうか」と教えを求める立造に対し鉄舟は、「本当に情欲を断ちたいなら、情欲の正体は何か、を自分で見極めるがよい。教えられてわかるものではない」と突き放します。
 鉄舟自身もこの性の問題で苦しんだそうですが、試行錯誤の末に庭前に咲く草花を見てさとったのは、生殖の真義をさとったのでしょう。性欲は生命ある限りなくなるものでもなくせるものでもありません。それを断滅しようとするのもまた迷いです。禅語でいう「流れに随って(しかも)流れに委せず」に、人生論としても主体性の確保の必要が理解できるのではないしょうか。

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