7月 18日 松原泰道著 『公案夜話』-第26回〔倩女離魂〕

 ――― 倩女離魂(せいじょりこん)― もう一人の自分 ―――

 この公案は、話の内容が中国・唐代の怪奇小説がベースになっている、禅の公案としては、非常に珍しいものです。
 これは湖南省・衝州(こうしゅう)に住んでいた張鑑(ちょうかん)という男の一家の話で、張鑑には二人の娘がいましたが長女は早死してしまったので、張鑑は次女・倩女(せいじょ)をこよなく可愛がりました。倩女はたいそう美人でした。張鑑には王宙(おうちゅう)という甥がいましたが、この王宙もまた美男でした。
 倩女と王宙は小さいときからよく二人で遊んでいましたが、やがて二人は恋仲になっていきました。張鑑も、この二人を見て「お似合いのカップルだ」と認めていました。ところが、倩女が年頃になると張鑑は、倩女を他の男の嫁にしようとしました。それを知った王宙は落胆し、家出をしようと船で川を下りました。
 夜、とある岸で休んでいると、そこへ岸伝いに王宙を追ってきた倩女と出会います。王宙は大そう喜び、故郷へ彼女を連れて帰り、そこで倩女と幸せな家庭をきずき、二男をもうけます。ところが、年月が経つにつれて、倩女は「父が恋しくてたまらない」とのことなので倩女を連れて、船で衝州へ向かいます。衝州では、倩女を船に残し王宙は一人張鑑に会いに行きます。
 張鑑は「娘の倩女はここに居る。お前が家を出て以来、悲嘆にくれ、未だに床に伏せっている」というのです。張鑑は不思議に思い、使用人を付けて王宙の船を調べさせます。帰ってきた使用人は「確かに倩女だ」と報告するのです。そこで、張鑑は娘の部屋を調べ、そこに倩女が床に居るのを確かめます。そこへ、船から上がってきた倩女と床の倩女がまみえます。二人は大そう喜び合い、そこでなんと合体して、一人の倩女になりました。張鑑や王宙から問われても、倩女は「どちらが本当の自分なのか分からない」と答えるばかりです。
 これが、その怪奇物語の概要です。当時の中国では、この怪談物語が大変広まり知らぬ者はいない、とまで言われました。その頃、河北省・五祖山(ごそさん)に法演(ほうえん)老師という高僧が居られました。法演老師は公案禅を大成した事実上の功労者といわれている人です。法演老師は、当時知られていたその怪奇物語を題材に、「那箇(なこ)か是れ真底(しんてい)」(一体どちらが本当の倩女か)と弟子に問います。これが、この公案の眼目です。
 「どちらが魂でどちらが肉体」という答えでは、この公案の工夫としては問題外です。鈴木大拙博士の言葉に「自分の中に、もう一人の自分がいる」というのがあります。倩女だけではありません。私たちはみな例外なく、自分の中にもう一人の自分がいるのです。現代歌人の一人で、平易な口調で詠ずる俵万智さんに「泣いているわれに驚くわれもいて 恋は静かに終わろうとする」というのがありますが、失恋して泣くのも自分なら、それを驚き見つめるもう一人の自分がいるのです。感情のままに流れる自分と、それに驚く自分と、この二人の自分のうち一体どちらが本当の自分でしょう。現代思想家の一人の安積(あづみ)得也(とくや)さんが、この「もう一人のわれ」を〝未見(みけん)のわれ(まだ会ったことのない私)〟と表現しています。
 まだ会ったことがない、というだけではありません。見ていながら見えていないのです。会っていながら、会っていないのに気づかないのです。これを会っていて会っていないと申します。私の中にいるもう一人の私は、決してまだいっぺんも会ったことがないのではなく、会っていて会っていないのです。「会っている」と気づくとき、二人の自分が完全な一人の自分になるのです。

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