松原泰道著 『公案夜話』-第29回〔達磨安心〕

 ――― 達磨安心(だるまあんじん) ― 不安の心を持って来い ―――

 『無門関』という禅宗の有名な経典の、禅を志す者ならば誰しも一度は何等か形で接するこれまた有名なお話しで、別名「慧可断臂(えかだんぴ)」というお話です。
 達磨(だるま)面壁(めんぺき)す。二祖雪に立つ。臂(ひじ)を断(き)って云(いわ)く、弟子は心未だ安からず、乞う師安心せしめよ。磨云(いわ)く、心を将(も)ち来れ、汝が為めに安んぜん。祖云(いわ)く、心を覓(もと)むるに了(つい)に不可得なり。磨云(いわ)く、汝が為めに安心し竟(おわ)んぬ。
 というのが、この『無門関』に載っている文章で、これでは内容が分り難いので、松原泰道さんの文章をお借りして解説しましと、
 「達磨はインドに生まれ、はじめて中国に禅を伝えたので、中国の禅の初祖(しょそ)と仰がれます。達磨は中国北方の嵩山(すうざん)の小林寺で九年間、ただ壁に向かって坐禅を続けたといいます。
 神光(しんこう)という熱心な求道者が、達磨を慕って嵩山に来たのは神光が四十歳の冬のころでありました。達磨は室内で黙って相変わらず面壁(壁に向かって)して坐禅をしています。神光は庭先にうずくまって入門を請いますが、達磨は振り向きもしません。宵から降り始めた雪は次第に積もって明け方には神光の膝を越えます。さすがに達磨はあわれに思い、はじめて声をかけると、神光は重ねて入門を哀願しますが、達磨はまたも答えません。神光は意を決して、隠し持っていた刀で自分の左の臂(ひじ)を斬って達磨の前に置き、求道のためには身命を惜しまない決心を示します。達磨は神光のひたむきな決意を肯(うけが)い、彼に「慧可」の名を与えます。慧可は喜んで『私の心は今、不安であります。どうか私の心に安らぎをお与えください』と、教えを求めます」。
 これは決して史実に基づいたお話ではなく、禅宗の中に古くから伝わる伝承で、宗門の伝承になりがちな誇張が含まれています。しかし、このお話の伝えんとしている事は「個人の身命を賭けた求道のあり方」であります。
 松原泰道さんの文章のこの後の続きを見ますと「さて慧可から、私の心は不安です。安らかにして下さいと哀願された達磨は『よろしい、お前の心を安らかにしてあげよう。その不安の心をここへ持って来なさい』と命じます。そういわれて慧可は『(不安の)心を探し求めましたが、ついに探し当てられません』と答えます。ここにこの公案の一つの節目があります」と書かれています。
 『無門関』の文章では、神光(慧可)は達磨の問い掛けに対してその場で即答しているように見えますが、慧可が「ついに探し当てられません」という答を得るまでには相当な時間を費やしているはずです。
 なぜ「探し当てられ」なかったのか。そのことに付いて松原泰道さんは、「心は目に見えない水にも似て、つねに流れて止まらないからです。流れるものは流れのままに見るほかないでしょう。心とは、こういうものだと概念的に言えないものそのものだから、言葉ではつかめないのです。言葉で表現できない事実は、体験による外ありません」と書かれています。
 この事に付いて松原泰道さんは、別な逸話で説明をされています。江戸時代前期の高僧の盤珪(ばんけい)とある僧侶とのやりとりがあります。ある僧が盤珪に「私は生まれつき短気で困っています」と訴えます。そこで盤珪は、上記の達磨と同じようにその僧に「今ここに短気があるのか。あるならここに出してみなさい」と言います。当然その僧は「今ここには短気はありません」と答えます。盤珪は「そなたの『短気』は、元々あったものではなく、その場その場でそなたが作っているものではないか。それを『生まれつき』などと親の性にして、この親不孝者め」と詰ります。
 松原泰道さんは「不安でない安らかな理想の心や、短気でないゆったりした心がどこかにあるように思って自分の中を探すのを怠り、他所(よそ)ばかりさ探すことの愚かさに気づくなら、しぜんに短気も解消する路が開けるでしょう。心の時代とは、心の不可得とつかんだ上でどのように心を拓いたらよいか、と努力する時代である、と思います」とつづります。
 この回で輪読会のテキストとしての松原泰道さんの『公案夜話』は終わりになります。次回からは、現役のドイツ人僧侶・ネルケ無方さんの書かれた本をテキストとしました。

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