ネルケ無方さんの紹介 -第30回

―― ネルケ無方さんの紹介 ――

名前からもわかる通り日本人ではありません。ドイツ人です。そして今は、兵庫県但馬の山奥にある安泰寺というお寺の住職をされています。 
どのような方かについては、たまたま、無方さんを紹介している記事を2013年の「Newsweek誌日本語版」と2015年の「週刊朝日」で見つけましたので、そこから抜粋してお借りすることにします。

<Newsweek誌日本語版(2013年)>
 この曹洞宗の禅寺の9代目住職を務めるのは、ドイツ人のネルケ無方。彼の下には常時、15人前後の修行者が暮らしている。そのうち6割はヨーロッパ、アメリカ、シンガポール、オーストラリアなど世界各国から集まった人々だ。
 そもそも禅は大陸から日本へ渡来したものだが、仏教哲学者の鈴木大拙の伝道によって、欧米では日本文化として定着している。ネルケの故郷である北ドイツ・ブラウンツワイクの高校にも、禅サークルがあった。ネルケもサークルの運営者に勧誘されたが、最初はうさんくさい気がして近寄らなかった。しかし何度か誘われて1回ぐらいならと試したところ、大きな衝撃を受ける。
 「ヨーロッパの人はだいたいそうだが、私はそれまで自己というものは頭の中にあって、体は脳を生かすための道具に過ぎないと思っていた。しかし座禅をすると、心と体がピタリと一致する。さらに周りの自然も自分とつながっていることを肌で感じて、ハッとした」
 禅は厳格な規律に縛られた堅苦しい世界と思われがちだが、ネルケはその中にある自由を見いだした。「キリスト教は神や聖書に縛られているが、禅は神仏や経典よりも修行する自分自身がよりどころ」と感じ入った。
 「よそ者」に対する偏見にも悩まされた。仏教に興味があるというと、「ドイツ人には仏教は理解できない」と一蹴された。インド発祥の仏教に取り組むのに、日本人もドイツ人もないと思っていたので不満だった。
 そうした悩みを抱えていたとき、「24時間、自給自足で禅三昧の寺」があるという噂を聞き、遠路はるばる安泰寺を訪れた。禅を教えてほしいと申し込むと、誰かに教えてもらうのではなく「安泰寺はおまえ自身がつくるんだ」と当時の住職に言われたことが、今も忘れられない。寺に何かしてもらうのではなく、自分が寺に何をすることができるかが大事なのだ、と。
 ヨーロッパがキリスト教に束縛されているように、日本仏教の現場も組織や世間に縛られていると失望を感じていたネルケだが、安泰寺には仏教本来の「個を大事にする」場があると確信した。
それから20年余り、縁あって02年に住職を引き継いだネルケの元には、寺の評判を聞き付けた若者たちが国内外から訪れる。修行者は日本人も外国人も風呂では共に汗を流し、同じ釜の飯を食べる。時には英語を交えながら、違う価値観を持つ者同士が切磋琢磨し合う。

<週刊朝日(2015年)-ネルケ無方さんへのインタビュー>
 人は絶えず何かを求めて生きています。それはお金であったり、地位であったり、恋人であったり。今の自分には欠けているもの、そして「手に入れることができたら幸せになれる」と思い込んでいるものでもあるでしょう。
 しかし、馬の鼻先にぶら下げたニンジンのように、追いかければ追いかけるほど遠くに逃げてしまう。つかむことができても、「これではなかった」とすぐに関心が薄れ、別なものを探し始めるのです。
 次から次へと必死に追い求めるうちに、自分を見失い、何が幸せなのかが、わからなくなる。本当はじゅうぶん幸せなことに気づいていない――。今の日本には、そんな人が増えているのではないでしょうか。
 坐禅は、何かを追い求めることをやめ、何も考えずにただ坐る。求めなくなると、さまざまなことに気が付きます。私は16歳のときに初めて坐禅を組み、何とも言えない心地よさを感じました。規則正しい心臓の鼓動や呼吸の音、外から聞こえてくる鳥の優しいさえずり……。多くのものに自分の命が支えられ、生かされていると実感しました。
 坐禅をするまでは人生にかかわるさまざまな悩みの答えが見つからず、頭の中で堂々巡りしていました。でも、坐禅をした後は、答なんかどうでもよくなっていた。ありのままの自分を受け入れられるようになったのです。
 姿勢をととのえても脳は働き続けていますから、雑念がフツフツ浮かんでくるのは仕方がない。雑念は、晴れた空に現れる雲のごとく、消そうとしても次々出てくるものです。消せないものなら、「こんな雑念もあったのか」と、空のようなおおらかな気持ちで受け入れ、流せばいい。雲が増えて雨になり、雷が鳴ったとしても、永遠に続くことはないのです。いずれ晴れる日は来るでしょう。
また、坐禅を組むと余計に雑念がわくという人もいます。実はそうではなくて、坐禅をしたおかげで今まで意識していなかった自らの雑念に初めて気づいた、ということなのです。
坐禅をして何になるのかと問われたら、「何もならない」と即答します。何もならないからこそ、いい。人間の一生も、生きたところで何になるものでもない。何もならない一生を生き抜く自信がなければ、中途半端な生き方になります。
 その自信のない、中途半端な生き方を変えてくれるのが坐禅です。まず、何もならないことを、ただやってみる。頭の中は仕事でいっぱい、ノルマをこなすのにあくせくして、生きている意味がわからなくなってしまった人こそ、坐禅をしてみてはいかがでしょうか。
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 異国の人がここまで「禅」というものを深く理解し、それを自らのものにしています。それだのに、日本人である自分は、「禅」というものが絶えず身近にあったのに、そして伝聞としての「禅」をただ知識として頭の中に入れ、その何たるかを本当は知らずに来てしまいました。
 欧米の人たちにとってみれば、いまや「禅」というものは、単なるエキゾチズムやオリエンタリズムの対象ではない。キリスト教文化、あるいはキリスト教をベースにした精神生活を「あたりまえ」としておくってきた人たちにとって、「キリスト教だけではない精神性」を彼らは「禅」の中に見出している、ともいえます。ですので、「禅をやってみたい」という欧米の人たちは、いま非常に増えていると聞きますが、あるいは、日本人である私たち、いえ「私個人」というべきかも知れません、「禅」をあまたある宗教の一つとして表層的にしか捉えずにいた私より、より真剣に、そして生きる糧として、取り組んでおられるのかも知れません。 

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