<第30回>ドイツ人住職が伝える 禅の教え 生きるヒント33 - ネルケ無方

 今回から、ネルケ無方さんが2012年に出版された、表記の『ドイツ人住職が伝える 禅の教え 生きるヒント33 』から1節づつ取り上げ要約し、‟ネルケ無方さんの禅”のエキスをご紹介したいと思います。

―― 〔その1〕わたし次第、あなた次第 ――

仏道を習うといふは、自己をならう也。
自己をならうといふは、自己をわするるなり。

 これは、日本に曹洞宗を広め、永平寺を開山した道元禅師の主著である『正法眼蔵(しょうほうげんぞう)』の中の、「現成公案(げんじょうこうあん)」にあるもっとも有名な一説です。ネルケ無方さんの文章は明快にして簡潔ですので、要約することを躊躇します。ですので、まず暫くはネルケ無方さんの文章をそのまま載せさせていただきます。

 「仏道」とは2500年前に釈尊が開かれた悟りの内容です。仏=覚者、道=知恵(ちえ)ですから、仏道とは「仏の道」ではなく、目がはっきり目覚めたときに見える、曇りのない現実の光景です。これについて学ぶということは、自分自身を学ぶことだというのです。仏教とはそもそも、そういう宗教であったはずです。いや、宗教というよりは、生きる態度といったほうが正しいかもしれません。仏教は、自分が自分に目覚める行為です。釈尊はあくまでも元祖にすぎず、信仰の対象ではありません。実物見本です。この見本を参考にして生きなければならないのはこの私であり、あなたです。
 私が今から二十二年前にドイツから来日した理由は、仏道を求めたことのほかにありません。「何のために生きなければならないのか? そもそも人生の意味とは? 私とは?」、そういった疑問を私は禅仏教で解決しようとしていたのです。1990年にようやくたどり着いたのが、今私が住職を勤めている安泰寺ですが、当時の住職の挨拶は「安泰寺をお前がつくる」という一言でした。
 これにはびっくりしました。答えを師匠が教えてくれるのではない。先輩も助けてくれない。自分自身が求め、自分自身が問われ、自分自身が答えなければならない、そういう厳しさが仏教にはあります。師匠も先輩もまた、一つの実物見本にすぎません。それを鏡として、私が学ばなければ意味がない、そういう意味合いの励ましであったのだと思います。
 「安泰寺をつくる」とはすなわち、「自分の人生をつくる」ということでもあり、周りの世界をつくることでもあります。この私が変わらなければ、世の中が変わるはずがありません。わたしが変われば、世界が変わります。
 言うのは簡単ですが、行き詰りました。安泰寺をつくろうという意識はあるものの、何もかもが自分の思うとおりにはなりません。そのとき師匠が諭(さと)してくださいました。
 「お前なんか、どうでもいいのだ!」
 えっ、安泰寺をつくるのはこの私ではなかったっけ? そうしてその私が、今度は「どうでもいい」と言われなければならないのか? 最初はそういう疑問もありましたが、よく考えてみたら、この「わたし」という思いを手放してこそ初めて自分も変わり、世界も変わるのです。自分で「今・ここ」、この世界がつくられているのです
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 そうです! これが仏教の全てではありませんが、基幹部分を成している考え方です。釈尊(ブッダあるいは、一般的な仏)は決して「信仰の対象」ではありません。でも「実物見本」なのです。釈尊は決して特別な存在ではなく、私たちと同じ一人の人間に過ぎません。ですから私たちも、この実物見本を目指して努力すれば(修行すれば)その実物見本に近づけるのです。この「努力」が禅の修行です。そして、この前半の文章の後に、この後に掲載するような文章を続けています。
 そして、その前に、前の文の最後の部分とのつながりで申しますと、「この『わたし』という思いを手放して・・・」こそ「自分も変わり、世界も変わる・・・」のです。でも、決して誤解しないでください。「わたしを手放して」とは、周りと折り合うために「わたしを手放す」(いわゆる滅私奉公)ではなく、いま「わたしだ」と思い込んでいる「我(が)」を捨てなさい、といっています。禅の言葉として「手放させば手に満てり」というのがありますが、いま、私たちは、その「手」に大変たくさんのもの(膨大な情報だったり、知識だったり、これまで培った経験だったり、そしてそれらで懲り固めた‟我(が)”などです)、手に余るもの、を持ち歩いています。それを手放せばいろいろなものを手に入れることができます。これも、禅におけるキーワードです。これについてはまた後に触れることがあると思います。
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 おのおのが「自分」という思いを手放して、しかも積極的に、主体的に全体に関わって初めて共同体が成り立つのです。
 安泰寺の跡を継いで、住職になった十年前から、私は弟子に教えています。
 「安泰寺をお前がつくる」
 「お前なんか、どうでもいい」
 この態度をサッカーチームの精神に例えることもあります。個性豊かな優秀な選手が十一人集まったとしても、チームが一丸となっていなければ試合では勝てません。個人プレーではないのです。個人プレーではないけれども、最後にシュートを放つのはたった一人です。ですから、チームのために自分を忘れてしまうと同時に、このチームは私次第だ、この私がチーム全体を背負わなければという強い責任感も要求されます。強いチームなら、フォワードも守備のことまで考え、ディフェンダーもゴールを狙うときがあります。一人ひとりの選手が自分の役のみを演じているのではなく、全員がすべてのポジションを連結して力を発揮できるチームがあれば、最強でしょう。
 道元禅師はもちろん、サッカーのサの字も知りませんでしたが、「正法眼蔵(しょうほうげんぞう)」の「古鏡(こきょう)」という巻の中で、「一珠走盤(いっしゅそうばん)の自己」という言葉を残しています。自己とは、あのサッカーフィールド(盤)で飛び回っているボール(一珠)のようなものだと言っています。小さな「私」というポジションではなく、フィールド全体が、出会うものすべてが自己です。2011年、初めて世界制覇を果たした「なでしこジャパン」が全国民に勇気を与えましたが、これからの日本もそういうチームになれるのでしょうか。残念ながら日本丸の監督たちにはあまり期待ができそうにありません。ですから、すべて私とあなた、この国に住んでいる一人ひとりの国民にかかっているのです。国を立て直すためにはおのおのが小さなエゴを忘れて、全体を把握し、積極的に働きかけなければならないのです。

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