<第33回>ドイツ人住職が伝える 禅の教え 生きるヒント33 - ネルケ無方

―― 〔その4〕水増しをしても、混ぜ物はするな ――

道元禅師の主著『正法眼蔵(しょうほうげんぞう)』の中の「袈裟功徳(けさくどく)」の巻(袈裟の作り方、着け方と袈裟に対する心構えについて書かれている)にある文章で、

 かの合水(ごうすい)の乳なりとも、乳をもちゐんときは、この乳のほかにさらに乳なからんには、これをもちゐるべし。たとひ水と合せずとも、あぶ らをもちゐるべからず、うるしをもちゐるべからず、さけをもちゐるべからず。

 というのがあります。内容としては、
 「もし乳の必要なときに他に純粋は乳がなければ、たとえ水増しされた乳であっても、それを使いなさい。ただ乳を水ではなく、油や漆(うるし)や酒と混ぜてはいけない」
 というものです。
 道元禅師はここで、師匠から弟子へ仏法(ぶっぽう)が伝わる伝道の話をしています。師匠の法が正しく伝われば、仏法が脈々と流れ、弟子は師匠と対等の新たな一仏祖に加わるのです。ここから先は、 ネルケ無方さんの文章をそのまま載せます。
 ―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・――・―・―・―・―・―
 「正しく伝える」ということは、乳を水で薄めるようなことではなく、乳が100%一つの器から別の器へ移る、というような関係だと禅師はいいます。一人の師匠からたとえ百人、千人が教えを受けたとしても、教えそのものがそれで薄くなるということはありません。一人ひとりの弟子はそれぞれ、師匠の教えの100%を受け継がなければましません。そのためには、教える側も100%の乳を提供するように気をつけなければなりませんし、教わる方も100%の乳以外には、何も求めてはいけないのです。
 ところが、現実には人の伝達能力にも限界があれば、理解力にも限界があります。表現力の豊かな師匠もいれば、口下手な師匠もいるでしょうし、賢い弟子もいればそうでない者もいます。100%を教えたつもりなのに、その一割しか飲み込んでもらえないときもあるのです。
 それでもいい、と禅師は言っています。水と乳の混ざった乳しかないときは、それでもかまわないと言うのです。ただ、油を混ぜたり、酒を混ぜたり、ましてや漆を混ぜたりしないように、と忠告されています。
 どうして、乳を水増ししてもよいというのでしょうか。それは、水増ししても、乳の味が本質的に変わらないからだと思います。もちろん、あれば100%の乳が飲みたいのですが、水増しされていてもちゃんと乳の味がするし、それ以外の味はしないのです。勘の鋭い弟子なら、もとの乳がわかるのです。「1を教えて、10がわかる」という妙応(みょうおう)ですね。
 ・・・中略・・・
 坐禅についても、同じことが言えます。正しい師匠に「坐禅して何になるか」と聞けば、決まって「坐禅しても、何もならない」という答えが返ってくるはずです。世間から見れば何にもならないことだからこそ、ただ行うことが大切なのです。
 坐禅に色付けも味付けもしないということは、そういうことです。口が裂けても、「坐禅したらいい効果がある」とは、私も言いません。「いい効果」という酒に酔ってしまい、やがては「オレは悟ったぞ」という漆まで飲んでしまう者が現れてくるからです。オウム真理教などは、その最たる例だと言えるのではないでしょうか。
 ですが、これらは、決して宗教界に限った話ではない気がします。政界や経済界はもとより、教育界も、いわんやメディアも例外ではありません。いかに真実という乳を味付けし、加工し、時にはおいしそうなミルクシェークに仕上げたり、時にはカクテルで酔わせてみたり、下手をすれば怒りという毒を混ぜて人の心を操れる、それだけを考えているのではないでしょうか。
 だます方もだます方なら、だまされる方もだまされる方です。だまされないためには、混じりけのない乳の方を識別できる能力を獲得しなければならないのです。
 ―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・――・―・―・―・―・―
 私どもも、ゆめゆめ「混じり物」に心を持っていかれないようにしなければなりません。
 禅修行の先輩からよく言われた「坐禅しても、何もならない」という言葉、若い頃は、その言葉面だけに囚われて、坐っても然したる進展も得られないときなどには往々にして無力感に襲われ、投げ出したいと思われる時が多々あります。しかし、「その一割しか飲み込んで」いなくても、その「本質的な味」がいささかでも味わうことができれば、それはメッケモノではないでしょうか。
 

カテゴリー: ブログ, 輪読会 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です