<第34回>ドイツ人住職が伝える 禅の教え 生きるヒント- ネルケ無方

―― 〔その5〕弟子がバカなら、師匠もバカ ――  ネルケ無方

 本項の表題は、やゝきつい言い方かも知れませんが、そのストレートな物言いに中にその真剣さも含まれています。
 冒頭部分を本書より引用しますと、「仏教の中にもいろいろな宗派があり、それぞれの教えと実践があります。最終目的はいずれも『仏になること』、つまり成仏することですが、その意味づけと実践にはだいぶ隔たりがあるようです」。
 「禅宗ではとりわけ、目を覚ますことを強調します。死んでからでは遅いのです。今ここ、この私が目を覚まし仏にならなければ、仏教の意味がないというのが禅宗の主張です。坐禅はその実践であり、お経は坐禅の脚注に過ぎないというのも禅宗です」。
 「そこで大事になってくるのが実物見本となります。釈尊はもうお亡くなりになって、直接教えを乞うことはできません。今、仏像ブームであちらこちらの『仏さん』にお目にかかることはできますが、仏像から生き方を教わることはできないでしょう。生きた仏の実物が必要です」。
 「坐禅を山登りに例えましょう。山にわけ入って、登りつめなければならないのは、この私です。私が登らなければ、だれも代わりに登ってくれません。お経はいわば地図のようなものです。地図ばかり眺めていても、頂上には辿り着けません。
 しかし、一人で山に入ってしまうと、うっそうとした木々や、深い霧の中で迷うこともあるでしょう。そんなときは、道を知り尽くしているガイドがともにしてくれていれば、登山初心者でも心強いものです。

 道元禅師は師匠と弟子の関係を大工と木材に例えて
 『弟子が質のいい材用ならば、師匠は腕のいい大工のようなものである。しかし、いくら質のいい木でも、大工がダメならせっかくの良材もダメになり、逆に、ひねくれた〔曲木(きょくぼく)〕』が優れた大工の手にかかれば、独自の持ち味が表れ、かけがえのない作品に仕上がる」
 前回<第33回>で出てきましたが、「混じりけのない乳の例え」の通り、無味無臭の「真水」こそ仏法の例えとして一番適しています。ところが悲しいかな、多くの人が追い求めているのは正しい道より楽な道であり、純粋な水よりおいしそうなミルクシェークです。
 釈尊が亡くなったあと、その法は弟子が師匠となり、コップからコップへ水を移すように次世代にその法を伝えられます。釈尊が提唱していた実物見本を、その次世代、そして次々世代が実践によって提唱し伝え続けなければならないのです。師匠の教えを忠実に実践し、そこに自分のエゴを交えないことが弟子の責任なのです。
 安泰寺五代目住職の澤木興道老師は『自分のコップに水がいっぱいになっていたのでは、水を注いでもこぼれてしまう』とおっしゃったそうですが、自分を忘れてこそ、師匠の法が初めて学び取れます。
 弟子が学び取ろうとする仏法が果たして弟子に伝わるかどうかは、師匠の力によることももちろんですが、弟子自身の受け止め方にもよります。自分のふがいなさを師匠に押し付けてはなりません。
 師匠の欠点ではなく、自分の欠点を見つめること。自分のエゴではなく、師匠の可能性を引き出すこと。ときには、泥水からも真水を抽出(ちゅうしゅつ)しなければならないのが、今を生きている、私たち現代人です」。

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