<第35回>ドイツ人住職が伝える 禅の教え 生きるヒント- ネルケ無方

―― 〔その6〕大人とは何か? ――   ネルケ無方

『諸仏は是(こ)れ大人(だいにん)なり』
 仏とは何か?と問われた道元禅師の答えで、シンプルに「大人なり」というものです。
 「大人」とは、元は「師や学者または先人を尊敬していう語」だったのですが、今は、単に成人した人を指します。
 ここから先は、ネルケ無方さんの文章をそのまま載せます。
 「問題は、大人の定義です。二十歳の誕生日を迎えたとたん、法的には成人とみなされても、中身は成人した大人とは限りません。いや、大人ではない場合がほとんどではないでしょうか。悲しいかな、四十歳になっても、六十歳になっても、大きな子供が多すぎます(『それは自分のことじゃないの』という声が聞こえそうです)。
 大人の条件は何か? よく言われるのは、経済的にも精神的にも自立していることです。しかし、完全な自給自足をしない限り、経済的に自立しているとは言えないでしょう。専業主婦はもちろんのこと、サラリーマンも決して経済的に自立しているとは言えないと思います。結局、地球の人口の九九パーセント以上は、全体のつながりの中でしか生活できていないのです。全体のつながりは教育や社会保障、福祉から公共事業にまでおよぶ社会制度です。先進国になればなるほど、その自給率は低くなり、社会制度が逆にしっかりしてくる傾向にあります。ひねくれた見方をすれば、先進国の現代人ほど自立心がなく、グローバルな資本主義社会の単なる家畜(社畜)にすぎないということもできます。
 21世紀の先進国において、経済的な自立は個人単位ではもちろんのこと、国単位ですらありえないのです。そして精神的に自立するということも、教育、メディア、インターネットなどの影響を考えれば、ありえません。人の精神は、あらゆる方面からインプットされる情報を中立の立場で処理する能力など、そもそも持っていないのではないでしょうか。人の大まかな世界観や人生観から、善悪の判断、平等や自由の捉え方、伝統の重要性の位置づけまで、決してその個人が単独で行っているのではありません。その人の生まれ育った環境、時代、文化背景が大きく影響し、その時々の風潮も当然影響します。
 そこで、私は大人をあえてこう定義したいと思います。
 自分で見聞きし、理解したうえで実践において確認するという過程を仏教で「聞思修証(もんししゅうしょう)」といいます。「正法眼蔵・八大人覚」の中にも、「聞思修証」は大人の智慧として定義されています。
 『聞思修証を起こすを智慧と為す』
 とあります。ただ、自分の頭で考えて、理解すると言っても、自分の都合のいいように理解したのであれば、決して智慧と呼べないのは言うまでもありません。
物事を正しく理解することの重要性を、道元禅師は「正法眼蔵(しょうほうげんぞうぞう)随聞記(ずいもんき)」の中でも説いています。

 『古人の云(いわ)く、聞くべし、得るべし。亦(また)云く、得ずんば見るべし、見ずんば聞くべしと』
(話を聞いてから、自分の目で見て、真実を確かめること。真実が確かでないときはまず自分の目で見ること、見えていないときにはまず話を聞くこと)

 各々の人は世界を自分の色めがねを通してでしか見ていないのですから、事実はなかなか見えてこないのです。自分の色めがねをとってからでなければ、物事を正しく見聞きし、理解することはできないのです。その色めがねは本人ですら気がつかないことがほとんどですが、そこに気づかせるのが師匠や先輩の役割です」。
 ただ、歳ばかり重ね(「馬齢を重ね」)て今日に至ってしまった筆者としては、ひたすら耳の痛い話です。
この「大人とは」について、ネルケ無方さんの文章から更に発展させて、回を変えて、もう少し話を進めたいと思います。

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