<第36回>ドイツ人住職が伝える 禅の教え 生きるヒント- ネルケ無方

―― 「〔その6〕大人について」より ――   ネルケ無方さんの文章から想を得て

「大人とは成人した人のこと」、このような常軌的な説明では殆どの人の了解は得られないのでしょう。大人という言葉が使われるときは、こんな年齢の区切りよりも、イメージを語るときではないでしょうか。道元禅師も、「諸仏は是(こ)れ大人(だいにん)なり」といわれたときには、まさにこのイメージを前提としているように思います。
 最近、「大人になれない大人」といったアイロニーのような揶揄や、「大人になりきれない大人」といった言葉を耳にする機会が増えたような気がします。もちろん昔から、「大人になりなさい」とか「大人らしく」という言葉は、世の年長者、先達からたくさん発せられてきたのですが、それは「大人」というものの価値基準なり行動規範が前提として、ある程度、社会的共通認識として共有されていたから、それらのシンプルなフレーズだけで諭すことができたのでしょう。今はその基準なり前提が崩れ、それらの言葉が一定のベクトルを示すことができなくなっているのではないでしょうか。筆者は、決して懐古趣味に浸る積りはさらさらないのですが、しかし、最近は年を経たせいか「最近の若い者は・・・」といった、ありきたりの愚痴が思わず脳裏をかすめます。
 「大人」とは、年齢の区切りでもなく、また法的に付与されるものでもなく、「〝成る〟ものである」と言い方はできないでしょうか。ある作家は、自らの作品の中で「老成」という言葉を盛んに使われておられました。〝老〟という文字に若干の盤屈を覚えますが、老の字のイメージを捨象したとしても、この作家の方のこの表現の眼目は「大人に〝成る〟」ということではないでしょうか。
 そうです。大人とは、必然的にその領域に入ることではなく、そのように〝成る〟ことではないでしょうか。それは、努力してなる、あるいは発展的にそうなる、はたまたそのような人格形成がなされる環境がある、ということではないでしょうか。それによって、その誕生から、集団で生きることを運命づけられている人間というものが、個と他者との関係性の構築や調整、その社会の中で皆が生きるために資することができるようになっていく、それらが「大人になる」ということではないでしょうか。
 そこで、このブログは、坐禅をすることを目的とした団体のホームページ内のものなので、「禅」に関連付けてこのことを考えてみますと、人格形成というものに禅というものは非常にフィットします。私どもの市川静坐会が所属する「人間禅」という居士禅(一般人が、通常の社会生活あるいは学生生活を営みながら坐禅の修行をするその行為あるいはその人たちの集まりをこう呼びます。在家禅という方もおられます)の団体では、『人間形成と禅』という、一般の人たち向けに、禅というものを平易に紹介した本も出版されております。まさに、坐禅が人格形成に非常に役立つことが書かれています。そもそも、「人間禅」という居士禅者の団体名も、「人間形成のための禅」という理念から根付けられました。
 冒頭に書きました、道元禅師の「諸仏は是(こ)大人(だいにん)なり」も、人間として、その人格がある領域にまで達した人たちへの畏敬の念を込めて、その社会的に表出するものは「大人(だいにん)なり」なのであります。
 そこで次に語るべきは「禅がいかに人格形成に役立つか」ということです。これについては、およそ、この文章の延長線上での紙幅の中に収めきれるような内容ではありませんが、そのシンボリックなものを一点だけ採り上げさせて頂きますと、ひところ大変流行いたしました「断・捨・離」という言葉が非常に分かり易いかもしれません。この言葉を提唱しました山下英子さんは、この断捨離という言葉をヨーガから引かれておられます。ヨーガとその出自を同根とする禅も(今では全く別な展開になっていますが)、この断捨離と決して無縁ではありません。それは、禅のカルチャー面でも、造園や絵画、墨跡に知られるような禅文化というものによく表れております。それを一言でいえば「削ぎ落すこと」であります。
 「削ぎ落す」というと、その対象が無駄であったりぜい肉であったり、と連想されがちですが、そればかりではありません、「自分が必要であり、そればかりか〝不可欠〟と思い込んでいるもの」もその対象です。それは、取りも直さず、その「思い込み」を捨てることなのです。それらの今手にしているものを、思い切って捨ててみることです。禅の有名な言葉で、やはり道元禅師の言葉で、「放てば手に満つる」というのがあります。それはまさに、手にいろいろなものを抱え込んでしまっていては、新たに何も手に入れることはできません、ということであります。禅では、「削ぎ落せ、削り取れ」と盛んにいわれます。
 それでは、その「捨てる(削ぎ落す)」ということと、「大人になる」ということとどう関係があるのでしょうか。そこで、捨てるべきものとは「過去のもの」であります。人が今手にしているものは「過去に手に入れたのもの」です。それを捨てることによって手に入れるものは、新たに、その時代のもの、その環境に即したもの、その年齢に見合ったのもののはずです。
 人はその過去をひきずって、いつまでもこだわっていてはいけません。年を経れば経るほど手にしているものは多くなり「手に余って」きてしまいます。過去に手に入れたもの、記憶にあるものは「思い出」という箱の中に入れて、取り敢えずは棚の上にでも揚げておきましょう。そこで新たに手に入れるものは、今までになかった視点であり、経験則のはずです。そして、絶えず自ら脱皮をし、リニューアルを図っていきたいものです。

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