<第38回>ドイツ人住職が伝える 禅の教え 生きるヒント- ネルケ無方

―― 〔その8〕足下の一滴 ――   ネルケ無方

「塵中洛外(じんちゅうらくがい)、おほく様子を帯(たい)せりといへども、参学眼力(さんがくげんりき)のおよぶばかりを見取会取(けんしゅえしゅ)するなり。万法の家風(かふう)をきかんには、方円(ほうえん)とみゆるよりほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず。直下も一滴もしかあるとしるべし」。
 ノッケから大変難解な文章で恐縮ですが、道元禅師の『正法眼蔵(しょうほうげんぞう)』の中の「現成公案(げんじょうこうあん)」にある文章で、このままでは難しすぎるのでネルケ無方さんの私訳を拝借しますと、「人間世界を超えた宇宙全体のことはもちろんのこと、私たちの普段の生活の様子すら、なかなか自覚できないものだ。それは、私たちの日常生活を成り立たせている要素がたくさんありすぎて、そのすべてを客観的に見聞きし、理解することはできないからだ。私の立場からは現実の一つの側面しか見えてこないし、あなたの視野にも全体のうちの一部分しか納まっていない。物ごとを本当に知りたければ、先ずその色めがねを取りなさい。現実には〝良し悪し〟では割り切れない側面がたくさんあり、あなたが想像したこともない世界が地平線の向こうにあることを忘れてはいけない。あなたの地平線の向こうにあるその世界、それは決して遠いところにあるのではない。あなたの足下の話なのだ」。
 こうやって訳していただけると、その含意の深さに感じ入りますが、これが取りも直さず「禅の世界」なのです。
 ネルケ無方さんはこの後に、「小難しく聞こえるかもしれませんが」と断られて、「仏教の認識論の話をします」と続けられます。この後を続けて載せますと、「仏教の教えでは、人間は六根(ろっこん)を通して世界と関わりあっています。六根とは眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)と意(い)です。簡単にいえば、感覚の五感とアタマです。この六根が認識しているのは『私の世界』なのです。私が認識できるのは、この主観的な世界でしかないのです。しかし、『私の世界』の地平線のかなたに、より大きな世界があるはずです」とか書れております。
 そして、ネルケ無方さんはこう続けておられます。「私が今まで受けてきた教育や人生体験によって、私に見える視野の広さが決まっています。しかし、その視野の限界は私には見えませんし、私がかけている色めがねにも気づきません」。この後は、ネルケ無方さんの饒舌と冗舌(この2つの漢字には特段の違いはありませんが、筆者は敢えて使い分けました)が続き、それはそれで大変面白く私は好きですが、お話の内容としては平行移動しているようですので省きます。
 そこで、この文章には、禅を知る常うえで大変重要な内容が含まれております。ですので、次回にはここから少し立ち入ったことを、筆者なりに書かせていただきたいと思います。

 

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