<第40回>ドイツ人住職が伝える 禅の教え 生きるヒント- ネルケ無方

―― 〔その9〕お互い凡夫なのだ ――   ネルケ無方

今回は、聖徳太子の「十七条憲法」の中からの文章です。
 「共にこれ凡夫のみ。」(十七条憲法)
 「お互いに凡夫なのだから・・・」ということなのですが、これを起点にしての今回のネルケ無方さんの展開は、ネルケ無方さんご本人の極めて個人的なご意見が述べられておりますので、本書のネルケ無方さんの文章を極力そのまま転載して、内容をご紹介したいと思います。
 「自分の視点をもって、自分の頭で考えるのが大人なら、自身の意見や判断が客観的事実ではないと気づくことも大人の条件の一つではないでしょうか。
 ある人の『良いこと』をしているつもりは、私のとっては『迷惑』な場合がよくあります。あるいは『良心』だと言ったり、『正義』だと言ったりしているわりに、私から見ればその張本人の生き方に良心も正義も全然反映していない、ただの『偽善』にすぎないこともあります」。
 私どもの日常のほんの些細な事においても、自分の「正しい」を主張して、決して譲らない人が多過ぎます。そこでネルケ無方さんは、「我を張るのは止めましょう・・・」といった有りがちな予定調和でこの章を締めくくってはおりません。この「我を張り合い」を止めるにはどうしたらよいか、ここで聖徳太子の「十七条憲法」の文章を更に引いています。
 「忿(ふん=心のいかり)を絶ち瞋(しん=おもいてのいかり=思いによるいかり)を棄て、人の違(たが)ふを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり。彼是(ぜ)とすれば、即ちわれは非とす。われ是とすれば、則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚かなるにあらず。共にこれ凡夫(ぼんぷ)のみ。是非の理なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖(いえど)も、かへつてわが失(あやまち)を恐れよ。われ独(ひと)り得たりと雖も、衆に従ひて同じく挙(おこな)へ。
( <ネルケ無方さんの私訳> カンカンに怒るのをやめよう。人と意見が違うのが、どうして気に障るのか。人にはそれぞれ意見があり、こだわりがあるのだ。相手が正しいと思ったことを、自分は『間違っている』と言い、自分が正しいと思ったことを、相手は『間違っている』と言っている。自分が賢者であるはずはなく、相手も愚者とは限らない。お互い凡夫なのだ。正しいか、正しくないか・・・誰が確かに言えようか。賢者も愚者も、皆一つの輪をなして、つながっているのではないか。だから、相手が怒っていても、欠点をまず自分のほうで見つけるべきだ。自分だけが正しいと思っても、黙って皆に従い、同じように行動すべきなのだ)」
 これを、世界政治にも当てはめて、「世界政治を見ていても、ある人は『New Word Order(ニュー・ワールド・オーダー)』といい、世界の新体制を提唱します。それに反対する勢力を敵とみなし、やがて『Axis of Evil(悪の枢軸)』と決め付けてしまいます。しかし、決めつけたその人こそ、相手からは悪の象徴に見えることも少なくないに違いありません。西洋には、十字軍のころから今日まで、このパターンの『聖なる戦い』が絶えません。『お互い凡夫なのだ、だからカンカンに怒るのはやめよう』という立場をとれば、多くの世界中の戦争も、丸く収まるのではないでしょうか」と。
 しかし、ネルケ無方さんは、これは「結局は大使(聖徳太子)に都合のいい理屈にすぎないのでは」、「自分に怒ってほしくないだけではないの? ビジョンも責任感もなく、『皆で仲良くしようよ』と言っているだけではないの?」と断じます。そして、「聖徳太子の理論は、極めて危険な側面もあります。かつてのナチス・ドイツのように、多数の人が『右』と言い出し、皆もそれについていってしまえばそうなるのか・・・、歴史はそれを私たちに教えています」とし、「ナチス・ドイツと昭和初期の日本に共通している」のだが、その時代の日本人と現代の日本人とは「空気を読むのが上手とされている日本人はひょっとして、いまだにその体質はあまり変わっていないのかも知れません」と指摘しています。
 「自分の意志でこの世に生まれてくる人は一人としていません」、「否応なく」、「『一人前の社会人』に仕立て上げられ」、「社会人になってからは、空気を読み、期待通りに振る舞うことを要求されるのです。その期待に従順に応えようとするのが日本の『大人』」としています。「日本の社会がスムーズに循環しているのも、そういう『大人たち』のおかげですが、改善されるべきところもなかなか改善されないのは、この体制があってのことです」と断じています。
 「社会に出るということは本来、『自分の世界』を超えること」、「想像だにしなかった広い世界、『人の世界』を発見できる」、「人とぶつかったり、人に否定されたりする」、そして「見落としていた欠点を指摘され」それを経ることにより「大人になるということ」へと結びつく、と言います。
 そして、聖徳太子に反駁するようですが、とお断りしつつ、「体制に反対を唱えなければならないときもあるでしょう。反対すべきときは一人でも反対しなければ、大人とは言わない」。「大人なら、自分の行動や言動に一人で責任を負」うべきで、「自分の人生」は、自分で「責任を負って生きていなければ」いけない。「私が生きているこの社会」、「この私から改善しな」くて「誰が代わりに改善してくれるのか」。「私は強いリーダーなんかには、期待したくありません。おのおのの主体性に期待したい」。「自己主張だけで終わってしまう「個人主義」なんて、つまらない」と結びます。
この内容についてのコメントを、このまま続けては余りに長文になりますので、次回分で載せたいと思います。

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