<第41回>ドイツ人住職が伝える 禅の教え 生きるヒント- ネルケ無方

 ―― 〔その10〕お互い凡夫なのだ ――   ネルケ無方さんの文章から想を得て

 このネルケ無方さんの文章を読みながら、今から四十数年前にベストセラーになりました土居武郎さんの『甘えの構造』を思い出してしまいました。古いことですので記憶は定かではありませんが、日本人による「日本人の精神特性の分析」をした名著でございまた。表題からも推察できるように、日本人が持っている「周囲への依頼心」、「集団の中でのもたれあい」といったものを指摘し、当時、高度成長期の中にあって国内の経済活動に限らず、海外へもその活動範囲を広げようとしていた当時の経済人のみならず、外への勇躍を目論んでいた人たちの「日本人としての自分」という内省を痛く刺激し、多くの論客の議論の的になりました。
 それと共に、この「お互い凡夫なのだ」の文章から、「日本人の嬰孩(えいがい)性」という言葉を強く思い出しました。このやや自虐的な感のする言葉自体は極言に近く、この言葉の発言の前後の文脈を無視してこの言葉だけをピックアップすることは発信者への公平性を欠くかも知れませんが、しかし、この嬰孩性という言葉を使って言い表そうとして時点で、上記の土居武郎さんの著書とは時期も異なってはいますが、その内容については全く次元の異なるものと思います。けれども、筆者の耳にも達したということは、内省的といわれる日本人の、その内に宿している感情のある部分を刺激して看過し難い言葉だっただろうと思います。
 これは、ネルケ無方さんのように、日本に長く滞在し、日本人と生活を共にし、日本の社会風土の中に身を浸している多くの欧米人が、折に触れて少なからず思い、時として舌打ちをしたくなっているのではないでしょうか。筆者自身も、紛れもない日本人の一人として、これらのことが腑に落ちないわけはございません。私の中にも、これらの〝日本人性〟とでもいえるDNAが確かに存在していることを認識しないわけにはいきません。いえ、むしろ私なぞはその最たるもので「あまりにも日本人的」であると常々思っています。
 更に、ネルケ無方さんが、この「お互い凡夫なのだ」の中で、
 「聖徳太子に異論を唱える人がいてもおかしくありません。
『〔怒らざれ、怒らざれ〕と言うが、結局は大使に都合のいい理屈にすぎないのでは!』
『自分に怒ってほしくないだけではないの? ビジョンも責任感もなく、〔皆で仲良くしようよ〕と言っているだけではないの?』
聖徳太子の理論は、極めて危険な側面もあります。」
と言われます。
 ここで昭和初期の日本とかつてのナチス・ドイツと比較して、「共通している」としながらも、その共通点としては「『個人より集団』という体質です」と言われます。「そして終わってみれば、皆が口をそろえて『実は僕は反対だった・・・』と言うのです」とし、「空気を読むのが上手とされている日本人はひょっとして、いまだにその体質はあまり変わっていないのかも知れません」と断じておられます。
 「否応なく家や学校で教育され、『一人前の社会人』に仕立て上げられ」た日本人は、「社会人になってからは、空気を読み、期待通りに振る舞うことを要求されるのです」と決め付けます。そして更に、「日本の社会がスムーズに循環しているのも、そういう『大人たち』のおかげですが、改善されるべきところもなかなか改善されないのは、この体制があってのことです」としながら、「社会に出るということは本来、『自分の世界』を超えること」であるとし、「そこでは想像だにしなかった広い世界、『人の世界』を発見できるはず」、「人とぶつかったり、人に否定されたりすることもあるでしょう。それまでに見落としていた欠点を指摘されたりもします。大人になるということは、そういうこと」だとします。「体制に反対を唱えなければならないときもあるでしょう」、更に「反対すべきときは一人でも反対しなければ、大人とは言わない」、「自分の行動や言動に一人で責任を負わなければならないのです。自分の人生ぐらい、この私が責任を負って生きていなければ、誰の責任で生きていくつもりなのか」。
 恐らくは、ネルケ無方さんも、他の日本滞在の外国の人たち同様、あの「日本人性」に接し、〝舌打ちをした〟お一人ではなかったでしょうか。
 第二次世界大戦の、両国が世界を相手に戦いを挑んだときの世界観の展開を、戦後の両国がその後どのように扱ってきたか。彼の地では、小学校の時から歴史を学び直し、自分たちの犯してきた歴史的な事実に対し目を逸らすことなく、知識としても教え込まれているようです。それに引き比べてわが国ではどうでしょうか。この彼我の相違については、ここで再述するまでもなくよく知られている処です。特に昨今、「忖度」なる言葉がマスコミをにぎわしています。これまであまり接することのなかったこの言葉を、このように人々の口の端の上らせるのは、ネルケ無方さんからの指摘を受けるまでもなく、私たち日本人が体質的にもっている内面のあるものを忸怩たる思いで反芻するからではないでしょうか。
 然は然りながら、些か揚げ足取りのようで恐縮なのですが、前大戦中、枢軸国として徒党を組み、「己が正義」を振りかざして、手っ取り早く弱者(国)を蹂躙し、完膚なきまでに大敗を喫したドイツと日本の同質性、あるいは単なる共通性なのか、それらを言いながらそのすぐ後に、一方的に日本人の個人としての社会的位置取り、あるいは「社会的大人」としてのありようを詰る論理展開の飛躍は、あの明晰にして冷徹なネルケ無方さんらしからず、やゝ感情的、ともいえる仰りようですが、ひょっとしてそれはあの「舌打ち」の挙句だったのでしょうか。
 筆者は、今話題のポピュリズムの風潮に決して組するものではございませんが、やはりここは、土居武郎さんの申されるように「日本人の〝甘え〟」は、適度なものは社会的潤滑油になり、度が過ぎれば返って社会的に疎外される結果となり、無理に抑圧すれば「欧米並みのぎすぎすした社会関係」に堕してしまう。ここには一定の社会的基準を、無意識のうちに日本国民皆で醸成しているのではないでしょうか。今、東京の街中では外国人の旅行者が、昔に比べたらあふれ返っています。そして、それら外国人の一様に申されることには「日本人は親切だ・・・」というそれらの言葉は、これは決して伊達や酔狂ではございませんでしょう。冗長に堕してしまって失礼をしました。

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