<第42回>ドイツ人住職が伝える 禅の教え 生きるヒント- ネルケ無方

―― 〔その11〕君は修行のイロハも知らないのか ――   ネルケ無方

顕密(けんみつ)二教ともに談ず。本来 本法性(ほんほっしょう)、天然自性身(てんねんじしょうしん)と。若(も)しかくの如くならば、三世の諸仏、甚(なに)によってか更(さら)に発心して菩提を求むるや。

 これは、永平寺十四世が編集した『建撕記(けんぜいき)』からの言葉です。「永平寺十四世」ですから、永平寺の開山・道元禅師から数えて14代目ということです。十四世の著した道元禅師の伝記です。

 内容は、
「天台宗の教学も、真言宗の密教も、ともにこう教えている。
《真実の本体はもともと備わっているのであって、この身そのまま仏なのである》
もし本当にそうならば、どうして覚者が、どの時代もあえて発心をして道を求めてきたのだろうか」
 ということです。
 若き日の道元禅師の時代には、求道(又は向学)の心をもった若者にとって、教育機関こそない時代、その志を満たす術(すべ)としては出家して僧侶になるほかなかったのですが、当時のその方面での最高の機関は延暦寺でした。道元禅師の他にも親鸞聖人や日蓮上人も、若いころはここで学んでします。
 若き日の道元禅師は、延暦寺で「君は本来の仏性を持っているのだから、いまさら仏になろうとがんばらなくても……」といわれても、ぴんとこなかったのではないでしょうか。ネルケ無方さんも、その若い頃をふりかえって、「頼んでもいないのにこの世に生み出され、無理やり教育されますが、そもそも何のために生きなければならないのか、誰も教えてくれない。生きていれば、そのうちに楽しいこともたくさんあるさ……と、皆はしらんぷり。しかし、いずれ待っているのは棺おけのみ。サンタさんも信じなくなっていたネルケ少年は、死んだら神様が天国に連れて行ってくれるなんて、とうてい信じられませんでした。」と述べられます。「神様が天国に連れて行ってくれる」というのは、キリスト教の信仰の終局の形です。
 「『そのままでいいんだよ』といわれても、このままではいけないというトゲに似たような疑問が心に刺さっています。『来世の救いを待っていろ』なんて、そんな暇はありません。」とは、ネルケ無方さんの当時の道元禅師を汲み取った言葉です。道元禅師は、延暦寺を下山することを決意し、京都の建仁寺の明全禅師のもとで禅の修業を始めたのです。そして、23歳の時に中国留学の機会を得ます。膨大な費用と道中の死の覚悟を必要とする旅ですが、道元禅師にためらいはありません。
 ようやくたどり着いた中国大陸では、どういうわけか明全禅師だけがすんなり入国が許され、道元禅師は税関で足止めを食らいます。その間、なんと数週間にも及び、その間、ずっと船内で寝泊まりをしていたようです。ところが、この「数週間」の間にあった出来事が、道元禅師にとって、後になって大きな意味を持つ出会いがあり、そして、道元禅師を通して、後世の我々にとっても非常にありがたい出来事があったようです。
 道元禅師自身が残された『典座教訓』によれば、1223年の5月のある日、道元禅師が寝泊まりする船に、ある老僧が訪ねてきます。目的は、
「『日本のしいたけ(原語は《倭椹》、桑の実という説もあり)を売ってもらえないかな』」ということだそうです。ここから先は、ネルケ無方さんの文章をそのまま載せさせて頂きます。
 「『まずはお茶でも召し上がりませんか』
 道元禅師が中国のお坊さんと言葉を交わすのは、この時が初めてです。老僧は青年時代から40年もの間、あちこちの僧堂で求道し続けたことを話します。年老いた今は、港から約20キロ離れている阿育王山(あいくおうざん)という僧堂で典座の役(「典座」とは、坐禅道場内の役職のひとつで、毎食の食事を皆にふるまう役のことです)に当たっているのだそうです。翌日ふるまう食事のために、何かご馳走になるものを探し求めてわざわざここまで来たといいます。幸い、しいたけが買えたので、そろそろ帰ろうかという老典座に、道元禅師はこうお願いします。
『今日、こうして船の上で会い、お話ができたのも何かのご縁でしょう。今夜はぜひともここにお泊りいただき、おもてなしさせて下さい』
 『いや、それは無理だ。今すぐ帰らないと、明日の食事の準備に間に合わない』
 『典座さん一人がいなくとも、誰かが代わりに作ってくれるのではありませんか』
 『典座という役を司るというのは年老いた私の修業だ。どうしてそれを人任せにせよといえるのだ!』
 『それなら、どうして坐禅をしたり経典の勉強をしたり、もっと年相応の修業をされないのですか。わずらわしい台所仕事なんかして、何の意味があるというのですか』
 『遠い外国から来た友よ、君は修行のイロハもまだわからないみたいだね。しかし、その調子でまじめに問い続けたら、きっと本物になれるよ』
そう言い残して、典座は船をあとにしました。
 そのとき若い道元禅師は何のことか、さっぱり理解できていなかったようです」。
 当時の道元禅師が、その時代の日本における禅修行者の最先端だったかどうかはわかりませんが、道元禅師ご自身は聡明で、そして早熟な人であったであろうことは想像に難くありません。それにしても、当時の日本の禅宗は、まだまだ中国から学ぶべきことはたくさんあったようです。

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