<第44回>ドイツ人住職が伝える 禅の教え 生きるヒント- ネルケ無方

―― 〔その13〕菩薩の誓願 ――   ネルケ無方

 禅堂や修行道場でお経を読む(読経)際の最初読まれるのが「開教偈(かいきょうげ)」です。いわば、読経のプロローグのようなものです。内容は、
 「無常甚深微妙法(むじょうじんしんみみょうほう) 百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう) 我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ) 願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)」
 というものです。そして、最後の〝〆(しめ)〟、すなわちエピローグとしてよく唱えられるのが「四弘誓願(しぐせいがん)」です。こちらの方の内容は、
 「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど) 煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん) 法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく) 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)」
です。
 どちらも非常に難解ですが、これらの解説を書き始めたら大変な文章量になりますし(むろん筆者にはその技量もありませんし)、この「市川静坐会 輪読会のご紹介」の趣旨にもそぐわないので省かさせて頂きます。
 この章とこの次の章で、ネルケ無方は、「菩薩心」ということを非常に丁寧に説かれています。ネルケ無方の文章を拾い読みしながら(≪≫内)、
≪「あれが欲しい、これが欲しい」と、満足を知らないまま、絶えず欲を満たそうとする私たち現代人のありようを仏教では「凡夫(ぼんふ)」と呼びます≫。現実の生活の中で、往々にして生き辛く、生活がままならないその根本原因は、私たちの「我執(がしゅう)」ではないでしょうか。≪「私が一番かわいい」という根拠のない思いから、いろいろな注文がわいて、絶えることがありません。しかし、注文どおりに行くはずもないので、生き詰り、悩んだり苦しんだりするのも私たち凡夫です≫。
 ≪我執のなくなった人を「仏」といいます。仏は与えられている物以上の物を追い求めていないのです。執着がないため、悩みも苦しみもないのです≫。≪私はなかなかそうはいきません。しかし、生きていながら少しでも仏に近づきたいという願いがあるのは事実です≫。≪仏という方向に向かって、自分の一生を過ごしたい人を「菩薩(ぼさつ)」といいます≫。
 すなわち、≪凡夫(己の欲望に流されて、六道輪廻に悩み苦しみ続ける人)➔菩薩(苦しみから解放されようという思いから、仏の解脱を求めて生きている人)➔仏(すべての欲望や執着をなくし、この世から消えていく人)≫ということになります。
 ※ 六道輪廻=仏教においては、六種類(天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)の迷いある世界を輪廻するという。
 「禅」はある意味、おのれ独自で「仏」になろう、という修行です。そこで≪自分一人で救いをいくら追い求めても、「我執」からの解脱はあり得ないのです。ですから、菩薩はまず自分より先に、他者に目を向けて、周りの衆生(生きとし生けるもの)を救おうとしなければなりません。「自分一人位、救われなくてもよい」という気持ちで、ただ衆生の済度のために務めることです≫。≪「皆が天国に行けるなら、私一人が喜んで地獄に落ちます」≫。
 文頭に挙げた「四弘誓願」の最初に「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)」と謳われているのは、まさに「そのことを考えなさい」ということです。

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