<第45回>ドイツ人住職が伝える 禅の教え 生きるヒント- ネルケ無方

―― 〔その15〕人生に賞味期限なし ――   ネルケ無方

 一日一夜をふるあいだに、六十四億九万九千九百八十の刹那ありて、五蘊ともに生滅す。

 これは、道元禅師の主著『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の中の「発菩提心(はつぼだいしん)」の巻の中の言葉です。≪日本人の場合「人生の賞味期限は80年ぐらい」と思われている人が多いのではないかと思われますが、それはとんでもないことです≫。
 上の道元禅師の文章の「刹那(せつな)」とは、≪インド哲学における時間の最短単位、つまり一瞬です≫。この文章の一日二十四時間における刹那が「六十四億九万九千九百八十」というのは、ネルケ無方さんが指摘していわく≪実は、これは計算違い≫だそうで、この出所は、インドの古代仏教の阿毘達磨(あびだるま)という哲学者の書物からの引用だそうですが、その書物には、
 「一昼夜(24時間)=30牟呼栗多(むこりた)=900臘縛(ろうばく)=54000怛刹那(たせつな)=6480000刹那」
とあるそうで、これを逆算すると「一刹那は約0.013秒(一秒の七十五分の一)」ということになり、そうすると一昼夜は「648000刹那」であり、道元禅師の「一昼夜、六十四億九万九千九百八十刹那」というのは1000倍も多くなる、とのこと。
 なにはともあれ、この≪一瞬の間に五蘊(ごうん)が誕生し、また減滅するというのです≫。この「五蘊」というのは≪感覚の対象となる物(色)、感覚そのもの(受)、それを自覚的な体験として再構成した知覚(想)、それをさらに概念化したもの(行)、そうしてやがてなりたつ知覚者の自意識(識)という、わたしたちの環境、感覚、感情と精神のすべてを成り立たせている五つの要素です。般若心経にも出てくる「色・受・想・行・識」です≫。すなわち、一日の内にこの五蘊が上に数字の刹那の分だけ「誕生し、また減滅する」こととなるというのです。
 ところで、≪人間が感じ取れ、またコントロールできる最短の時間≫は、≪音楽の世界でも一秒の百分の一の変化がノリを決めるそうですし、視覚の場合に眼に受けた情報(光)が視神経を経て脳に達し、知覚が成立するまで一秒の十分の一はかかるといわれています。そしておもしろいことに、赤い丸を見た場合、「赤」という情報と「丸い」という情報が別々に処理されているらしく、その処理に一秒の百分の一の時間差があるのだそうです≫。この、私たちが自覚できないくらいの時間単位、すなわち「一瞬=刹那」の知覚が≪私たちの日常生活で感じ取り影響を及ぼしていることは最新の脳科学でも証明されています≫。
 さて、ここでネルケ無方のおっしゃりたいことは、≪計算上の数値ははどうあれ、言いたいことは一緒です。「今しかない!」
人生に賞味期限なんかありません。あるのは、今という一瞬の生の命です。命は保存がきかないのです。今の命「生」で生きるから、生命です。そしてこの生命を〔私のもの〕と思っているのも、〔私の妄想〕でしかないのです≫。こうおっしゃりつつネルケ無方さんは、道元禅師の『学道用心集』から次の文章をひいています。

 今我が身体内外(ないげ)の所有(しょう)、なにを以つてか本(もと)と為(せ)んや。身体髪膚(はっぷ)は父母にうく、赤白(しゃくびゃく)の二滴は、始終(しじゅう)是(こ)れ空(くう)なり、所以(ゆえ)に我(が)に非(あら)ず。心意識智、寿命を繋(つな)ぐ、出入の一息、畢竟(ひっきょう)如何(いかん)。所以に我に非ず。彼此(ひし)執(と)るべき無きをや。迷う者は之を執(と)り、悟る者は之(こ)れを離る。而(しか)るに無我の我は計(けい)し、不生の生を執(しゅう)し、仏道の行ずべきを行ぜず、世情(せじょう)の断ず可(べ)きを断ぜず、実法(じつほう)を厭(いと)い妄法(もうほう)を求む。豈(あに)錯(あやま)らざらんや。
 <あなたは何を根拠に、その身体を《あなた》のものと言うのだ。髪の毛や皮膚までが両親からもらい物にすぎず、つまり父母の精子と卵子との結合によって生まれたものであって、実体はどこにもない。だから《あなた》ではないのだ。それから、《あなた》の心意識も同じだ。今の一息も同じだ。《あなた》がつかめるものならつかんでみろ。《私》や《あなた》はどこにもいない。なにを「自分が、自分が」と言っているのだ。
 迷う人は自分に執着し、悟った人は自分を手放す。そうわかっていても、本来なにもなかったところに《我》を張り、一瞬一瞬移り変わっていく命を自分の所有物のように思っている。やるべきことはやらないで、捨てるべきものを捨てないで、本物を嫌い偽物を追い回しているだけではないか。だから迷い続けるのだ>

 まさに≪耳に痛い≫かぎりです。これに続けて、

 往古来今、或(あるい)は寡聞(かもん)の士を聞き、或は少見(しょうけん)の人を見るに、多くは名利の坑(きょう)に堕(だ)して永く仏道の命(みょう)を失(しっ)す。悲しむべし、知らずんばある可(べ)からず。
縦(たと)ひ権実(ごんじつ)の妙典(みょうてん)を読むことあり、縦ひ顕密の教籍(きょうじゃく)を伝ること有るとも、未(いま)だ名利を抛(なげう)たずんば、未だ発心(ほっしん)と称せず。
 <昔も今も、浅はか知識を省みず、己のプライドという落とし穴に落ちて、せっかくの仏道の命脈を台無しにしている修行者のことを見聞きするのみだ。ああ、気の毒に。あなたもそうならないように、よく肝に銘じなさい。たとえ天台や真言のあらゆる経典を読んだとしても、自分のプライドを捨てられないなら、道心を発(おこ)したとは言えない>。

 本日はここまでとします。

 
 

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