<第49回>ドイツ人住職が伝える 禅の教え 生きるヒント- ネルケ無方

――〔その19〕「四摂法(ししょうほう)」+「暖房より暖かいもの」―― ネルケ無方

今回は、ネルケ無方さんのこの「ドイツ人住職が伝える 禅の教え 生きるヒント」という表題の本の最後の方(最後の章から3番目と4番目)の2つの章をまとめて、この本の輪読のご紹介を終えたいと思います。

先の「四摂法」は、本当の表題は「俺の名前は?」ですが、この表題をワケを詳らかにしていると文章が長くなりますので、勝手に要点となるところをまとめ、その内容を表題にしました。

一者(ひとつには)、布施(ふせ)。二者(ふたつには)、愛語(あいご)。三者(みつには)、利行(りぎょう)。四者(よつには)、同事(どうじ)。

道元禅師の『正法眼蔵(しょうほうげんぞう)』の中の「菩提薩埵(ぼだいさつた)四摂法(ししょうほう)」にある文章です。
「菩提薩埵」とは、「菩薩(如来(仏陀)に次ぐ存在で、修行を極めた人全般に当てはまります)」のより専門的な表現です。また「四摂法」の“摂”は、「取り込む」という意味合いが強く、辞書では「自分を取り囲む周りのすべてのものをあくまでも自分のように扱う」という訳が付けられています。そこで、ここで言う四摂法は、菩薩がと(摂)るべき四つの具体的な法、ということになり、それが上記の四つです。この四つは、言葉こそ違え、同じ目的の行為を四つの側面から表現したものです。
同じ「利他行(布施)」の行いに、「無財(むざい)の七施(ななせ)」というのがありますが、この七施とは、
眼施(がんせ)・和顔施(わげんせ)・愛語施(あいごせ)・身施(しんせ)・心施(しんせ)・牀座施(しょうざせ)・房舎施(ぼうしゃせ)の七つです。
この意味は、「顔施」とは慈悲に満ちた眼差し。「和顔施」は笑顔で喜びを分かち合うこと。「愛語施」はやさしい言葉の施し。「身施」と「心施」は身と心を投げ出すこと。「牀座施」は座席を設けることなので、若者が年配の方に座席を譲ることも牀座施であれば、年配の方が自らの地位を譲って若者に世代交代をさせるのも牀座施といえるでしょう。そして最後の「房舎施」は宿を与えることです。
≪これらの施しはいずれも「布施」でもありながら、相手を助ける「利行」でもあり、一切衆生の目線で行為するという「同事」でもあります。菩薩の「四摂法」の二番目である「愛語」は無財の七施のうちの三番目です≫。
この愛語に付いてのネルケ無方さんの文章を引用します。
愛語をこのむよりは、やうやく愛語を増長(ぞうちょう)するなり。しかあれば、ひごろしられず見えざる愛語も現前するなり。現在の身命(しんみょう)の存(そん)せられんあひだ、このんで愛語すべし。世世生生(せせじょうじょう)にも不退転ならん。怨敵(おんてき)を降伏(こうふく)し、君子を和睦(わぼく)ならしむること、愛語を根本とするなり。
(愛語を好んで使うことによって、自分の言葉遣いはだんだん磨かれて、次第に熟成するであろう。それまで口から出なかった愛語も、いずれは表れるであろう。生きている間、努めて愛語を言うこと。次の世にも、次の次の世にも愛語をやめないこと。社会を構成している個々人を和解させ、やがて敵を味方に変える力の根源は愛語である)≫
むかひて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こころのたのしくす。むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ、魂に銘ず。しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種(しゅう)子(じ)とせり。愛語よく廻天(かいてん)のちからあることを学(がく)すべきなり、ただ能を賞するのみにあらず。
(愛語をきいた相手の顔は喜び、心が楽しくなるのだ。人づてで聞いた場合でも、愛語を肝に銘じ、魂に銘ずるのだ。愛語は愛の心から起こる。慈悲というのも、愛の心の種子にすぎない。愛語には天地を翻(ひるがえ)すほどの力がある。ただのお世辞とはわけが違う)≫

以上に続きまして、後段の「暖房より暖かいもの」よりの内容を引かせて頂きます。
この章では、出来るだけネルケ無方さんの文章を抜粋ながらも引用させて頂きます(≪≫で括った部分)。
窮亀(きゅうき)をあわれみ、病雀(びょうじゃく)をやしなふべし、窮亀をみ、病雀をみしとき、かれが報謝をもとめず、ただひとえに利行にもさるるなり。(『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」より)≫
≪(困っている亀を哀れみ、病雀を養っている例を見ても、そうした人々は自らの果報を願ってそうしていたのではない。亀を見て、雀を見たそのときに、助けざるを得なかっただけだ困っている亀を哀れみ、病雀を養っている例を見ても、そうした人々は自らの果報を願ってそうしていたのではない。亀を見て、雀を見たそのときに、助けざるを得なかっただけだ)≫。
これは、「四摂法」の「利行」に当たるもので、上述の繰り返しになりますが、この利行も最後の同事も布施と目的は同じものです。この具体的な、そして鮮烈なエピソードとして種田山頭火の事を挙げています。ちょっと長いですが、引用させて頂きます。
ある日、「生死の中の雪ふりしきる」というような自由律俳句で有名な種田山頭火のところに、友達の大山(すみ)()日本の宗教家俳人。社会教育をおこなっていた。また、種田山頭火を世に紹介し知らしめたことでも有名)が遊びに来ました。二人は夜遅くまで話に花を咲かせていましたが、やがて帰ろうとする澄太を山頭火は止めます。
「さびしいから泊まってくれ」
ところが、山頭火のところには布団が一枚しかありません。その中に澄太を寝かせるのですが、寒くてなかなか寝付けなかったようです。
「山頭火さん、だめだ、寒くて寝られん」
それもそのはず、ボロ屋を隙間風が吹き抜けていたのです。困った山頭火は持ち合わせたものを友の寝ている布団にかぶせ、しまいには机まで上に乗せたそうです。それで暖かくなるはずもないのに、何とかして澄太は寝付いたようです。
翌朝、目を覚ますと枕元で山頭火が坐禅をしているではありませんか。自分の身体を衝立(ついたて)にして、風をさえぎろうとしていたのです。のちの山頭火ブームをもたらしたといわれている澄太は、このときのことを次のように振り返っています。
「本当に贅沢な限りを尽くした家に泊めてもらうことがある。そういう温かい部屋よりベッドより炬燵(こたつ)よりも、わたしはその山頭火の友情というものがこたえたんです」≫。
このときの山頭火が紛れもない
利行です。何よりも自分自身の身と心の施しなのです。
仏教には「自利(じり)利他(りた)」という言葉があります。自らを利し、他をも利するという意味です。道元禅師のいう「利行」にもこの両面があるはずです。
「人を救えば、自分も救われる」
しかし、本人は自覚しようがしまいが、そこには自分可愛さの思いが隠されていることがあります。道元禅師は次のように忠告します。

 愚人おもはくは、利他をさきとせば、自(おの)が利、はぶかれぬべしと。しかにはあらざるなり。利行は一法なり、あまねく自他を利するなり。。
(愚かな者は言うであろう。「他人のためにやった分だけ、自分の利益が減るのでは」 しかし、そうではない。利行はただ一つ、そこに自他の違いがない。他を利することはそのまま自を利することだ)                              禅師がいつも強調しているのは、その無所得(むしょとく)の精神です。来生に極楽往生するためでもなく、今生は少しでも多くの功徳を積もうという精神でもありません。菩薩の修業は、解脱をし涅槃を得るための準備段階でもなければ、上から目線のボランティアとも違います。「ボランティア精神」や「善意」も、ましてや「道心」や「解脱」をも完全に忘れていなければ、本当の菩薩とは言えません。目の前にある現実にまなざしを向ける、それが菩薩の精神であり、利行のスタートポイントはそこです。そこには、「これだけやったから、あれだけの果報がもらえるはず」という計算はまったくありません。≫
キリスト教の中心に隣人愛の理想があり、「自分を愛しているのと同じように、敵をも愛せよ」という言葉があります。一見、大乗仏教に非常に近いもですが、自他の分かれる以前の地点に立ち返ろうとするところに仏教の特徴があります。仏教の場合はキリスト教と異なり、自と他が分かれたのあと、自己愛と隣人愛の折り合いをつけるというような現実離れした話ではありません。現に、キリスト教は隣人愛という高い理想を抱えていながら、自分たちの信仰に従わない異教徒を愛するどころか、そのままそっとしておく寛容性すら持ち合わせていないように見受けられます。                                     一方、道元禅師は草木風水にもすでに利行の道理が働いていると教えています。「草木風水の施し合いから見習いなさい」というわけです。草木風水の利行とは? それが仏教でいう「縁起」なのです。仏教の縁起には良いものも悪いものもありません。一切のものが関係し合い、関係性の中でしか存在し得ないというのが縁起の道理です。一つの大きな網の目が皆つながっているように、です。                           縁起をわかりやすく説明している澤木興道老師の言葉。
天地も施し、空気も施し、水も植物も動物も人間も施す。施し合い。
われわれはこの施し合う中にのみ生きておる。有難いと思うても思わないでも、そうなのである」

以上で、ネルケ無方さんのこの「ドイツ人住職が伝える 禅の教え 生きるヒント」の本の輪読は終わりです。

 

 

 

 

 

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