<第50回>仏教の知恵 禅の世界 〔開かれたアイデンティティー (前半)〕―河合隼雄

―― 〔その1の1〕開かれたアイデンティティー (仏教の役割を求めて)<前半> ――

今回から、これまでに私どもの「市川静坐会」の輪読会で採り上げた中で、また新しい本の内容をダイジェスト版でお知らせいたします。
愛知学院大学が定期的にやっておられる、学外から人を招いての「講演会」の内容をまとめ、それを編纂したものを『仏教の知恵 禅の世界』という表題で出版されておられますが、その中からお二方の講演の内容を輪読いたしましたので、そのお二方の講演をそれぞれ2回づつ、計4回に分けて採り上げてみたいと思います。

まず最初に、河合隼雄さんの「開かれたアイデンティティー」という表題の講演で、副題に――仏教の役割を求めて――と付けられておられます。
河合隼雄さんはご存知の通り、京都大学の名誉教授であり、日本の臨床心理学の権威であり、日本にユングの心理分析学を紹介・普及された方で、後に文化庁長官もされた方です。それと共に、国際日本文化研究センターの名誉教授もされておられました。
この河合先生の講演内容の文章を、極力先生の言葉を拾いながら(≪≫で括った部分です。その中で更に(※ )で括った部分は筆者の脚注です)、要点をかい摘んでご紹介します。

≪臨床心理学というのは、いろいろな悩みをもった人の相談をする仕事でございまして、いろいろな人の手助けをしている、そこが楽しみの始まりです。≫
≪私は本来禅にも仏教にも関係がない。「先生は禅をやられますか」と聞かれると、「禅は全然知りません」とか言ってごまかしていたんです。ところが、その私が結局のところ、禅とか仏教ということを考えざるを得なくなってきたんです。それは、私の仕事がだんだんそれにつながってきたからです。≫
≪(この講演の演題の「開かれたアイデンティティー」とは)(第84代総理大臣の)小淵恵三首相からの依頼の「二十世紀日本の構想懇談会」の座長を務めた際、(各委員の方々に申し上げたことは、各界を代表する委員の方々の夫々の意見の中で)「共通認識として『個の確立』といことが挙げられる」と申し上げました。≫≪日本人はもっと自分の個というものを確立しなくてはだめだ、ただあまり利己主義の方に偏ってはいけない。「『個の確立と公の創出』、つまり、個は確立するけれども、公ということも創り出していかなければいけない」と申しました。≫
≪私は(個人として)ずっと考え続けていたことがありました。臨床心理学を専攻していますと、いろいろな人が相談に来られます。「私は学校へ行きたいけれどもいけません」という人もあるし、盗みをした人も来るし、極端な場合、殺人をした人も来る。いろいろな人が来られる。そういう人に対して私は何をしているんだろう。学校に行けない人が学校へ行くようになって、それで本当に成功なのか。盗みをした人が盗まなくなれば、それだけでいいのか。詩人として有名になった谷川俊太郎さん。あの人は学校へずっと行かなかったけれども、あの人が学校へ行っていたら、よくなかったかもしれない。谷川さんがわたしのところへ相談しに来ていたら、どうしただろうなと。私が臨床心理学の講義でよくベートーベンの例を出すんですが、(ベートーベンは私生活では不遇であったし、本人には非常に不本意なものだったろう)ベートーベンが普通に恋愛をして、結婚をして、ちゃんとした家に住んで、喧嘩もせず、平和な暮らしをするかわりに、全然音楽を作らなかったとしたら、それは成功だといえるでしょうか。いろいろな人が普通にしたら、それで成功なのか。どうしたらいいのかわからない時に、ともかくその人には個人として確立してもらおうという結論になったのです。(いろいろなことを)契機に、自分で自分のことを考えて、自分で判断して、責任がとれる人間を作れたらいいじゃないかと僕らは考えたわけです。私が臨床心理学の研究を始めたころ、個の確立、つまり「これがわたしだ」ということの確立、心理学の分野で「自我の確立」と呼ぶものを目指していればいいのだと考えた。≫
≪ところが、自我なんか確立してもしょうがないということが出てくる。自我を完全に確立していて、職業もちゃんと持っていて家庭も地位も金も何でもある。でも、どうしようもないという人が出てきたんです。(家庭も地位も金も)そういうものが全部手に入ると、何のために生きているのかわからなくなってしまう。今喜んで生きているけれど、死んだ後はどうなるだろうと考え始める。恐ろしくなって何もする気がなくなってしまう。それで、我々のもとを訪ねて来るんです。≫
≪私が勉強した心理学者のユングという人は、自分のところへ来た人の三分一は何の問題もない人だったと書いています。訪ねて来た人はアメリカのビジネスマンとか、他からみたら羨ましい方ばっかりです。(その人たちが)ものすごく悩んでいる。そこでユングは、「自我の確立は話の始まりに過ぎない。その次が問題ではないか」と考え始めた、つまり、「私はこうするんだ、こうやるんだ」と言っているのは人生の半分にすぎない。あと半分は、そういう自我がどう死んでいき、どのように自分というものを知るのかということだ。そして、その人生の後半こそが大事だと言い出したのです。≫
≪簡単に言いますと、「私は私を知っている」というけれども、私が知っている自我なんて非常に小さなものにすぎない。本当の私というのは、もっと大きな計り知れない訳の分からない存在で、自我というものがそれにちょっと乗っているだけだ。その大きなつかみきれないものを、日本語で(言うところの)「自己」と呼ぼうとユングは言います。本来の自己というのは、いったいどうなっているのか。この追求が人生の後半にあることをユングは見出したのです。≫
≪そのような自己のことなら、東洋人の方がはるかによく知っている。東洋人はそれを昔から知り過ぎて、自我を確立せずに、心の豊かさと物質的貧困の中に生きている。反対に、西洋人は物質的な豊かさの中で自己を知らずに生きている。だから、西洋人はもっと東洋に学ぶべきだ。でも、ヨーロッパの人々はほとんど聞き入れませんでした。1920年代のヨーロッパでは、科学が進んで武器が発達して、外国へ乗り出していって、世界中はヨーロッパのものだと言っていた。そういう状況で、自己とは何かなんて言ったところで、誰も聞いてくれなかったのです。さらに、先の世界大戦で日本が負け、ますます強くなっていくヨーロッパやアメリカは、その支えとなるキリスト教こそが中心で、他の考え方は全部間違っている。だから、ヨーロッパ的な考え方で世界を統一しなくてはならないと考えた人が沢山いた。≫
≪ところが、(その考え方を大逆転させる出来事が)「ベトナム戦争」でした。絶対に勝つと思っていたアメリカが勝てなかった。(その後)ベトナムに実際に行ってみたアメリカ人が考えた。「いったいアメリカ人は何のために生きているのか。ベトナムやその周りの国々に行くと、金も何もないけれど、悠々と暮らしている人々がいる」と。(そのことをユングは早くから指摘していたのです)≫
≪ユングの話にはあまりにも東洋的なことが入っているので、初めの頃は西洋ではあまり受け入れられていませんでした。その一方で、自我の確立についてもう少し深いことを考えた人がいます。エリック・エリクソンという人です。この人が、「アイデンティティー」ということを言い始めました。≫
≪エリクソンは、私達は自分を確立して、「これが私だ」なんて思っているけれども、本当に私というものは自分の存在の中に根差しているのかといったんです。単に判断力があるとか、決断力があるとか、責任があるとか、そういうことではなくて、これまでも私だったし、今も私だし、これからも私だというように、ずっと変わることのないもの。「これがわたしだ」と、腹の底からポンと言えるようなもの。それこそがアイデンティティーではないかと言い出したわけです。≫
≪そういうことは、アメリカ人もだんだん気づき始めた。1950年代頃からアイデンティティーという言葉がすごくはやり出しました。自我が確立していて、金も社会的地位も家族もあったとしても、それだけではなくて、「私は私だ」とか、「私はこう生きてきて、こう死ぬんだ」ということこそ、素晴らしいことではないかというようになってきたんです。≫
≪ところが、このアイデンティティーというものを科学的に説明しようとすると難しい。つまり、科学的に物事をはっきり決めるということと、「うん、そうだ」というのとでは、話が違うということです。私たちは、自然科学と科学技術が発達しすぎたために、科学技術は信用できるけども、科学技術でないものは信用できないと思い込みすぎている。科学も技術でも捉えられないものがあり、そういうものの中にすごく大事なものがあるのではないかということを、エリクソンは言いたかったんだと思います。≫
≪ノンフィクション作家の柳田邦夫さんが『この国の失敗の本質』という本を出版されています。(先の世界大戦で)この戦争を始めた時に、誰が開戦を決意したのか、誰のもとに責任があったかがわからない。だから、負けた後でだれも責任を取らなかった。戦争が終わって五十年後、日本は再び経済的な大国になったけど、その後でバブル経済が崩壊して、またしてもガタンと落ちてしまった。要するに、個人としてはっきり決断し、責任を取るということを、日本の指導者たちは行っていない。みんながそれをごまかしている。柳田さんの結論は、日本国民は失敗から何も学ばないというDNAを持っているのではないかということです。≫
≪二十一世紀日本の構想懇談会は、この失敗を二度としないようにと集まったのです。今度こそ、一人ひとりが自分ということをはっきりと打ち出せるような、そういう人間を作ろうとの意見の一致で、個の確立ということをすごく強調しました。≫
≪ところが、個の確立ということは本当に難しい。確かに誰でも言いますよね。学校に行けば「わが校は、みんなの個性を尊重する学校です。みんなが一丸となってやりましょう」。そんなことを一丸となってやったらおかしいでしょう。本当に個性というものを真剣に考えているのか疑問ですね。むしろ日本人は、個性を無視して数字や番号や順番を考えること大好きだ。
私は昔、高校の教師をしていたんです。その時に、クラスの生徒を一人ひとりよく見て、その生徒の親が来れば、「お宅のお子さんは、この間バレーボールで大活躍しましたよ」とか、「お宅の子供さんは、なかなか茶目っ気があって人気者なんですよ」とか言うのだけれど、たいていの親は聞いていない。それよりも、「うちの子供は何番ですか」ということの方が気になっている。それで、「お宅の子供さんは、この前の試験では十五番でした」というと、「分かりました」と言って、その番号だけを覚えて帰られるんです。番号というのは、個性を無視する。日本ではそういうシステムができあがっている。日本ではみんながだんだん個性を摩耗していって、とことん摩耗した人が、所長と校長とか、「長」という字がつく指導者になっていくんです。≫

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