<第53回>仏教の知恵 禅の世界 〔禅と桃おいしい関係 (後半)〕―玄侑宗久

―― 〔その2の2〕禅と桃おいしい関係<後半> ――

 玄侑宗久さんの講演、「禅と桃おいしい関係」の後半に入ります。
 
 いよいよ、「禅と桃の関係」に入りますが、
 ≪禅と言いましても大まかに言いますと二つの禅があるんですね。
初祖達磨さんに起こった禅が、二代、三代、四代、五代ときます。五代から六代に移る時に代表的な弟子が二人できるんです。一人は非常に優秀な弟子だった。その名も神秀(しんしゅう)と言います。神のように優秀だと書きます。一方、無学文盲だったといわれる慧能(えのう)という弟子がいた。無学文盲という言う割には『金剛経』の言葉を聞いて修行をしようと思った、と言われますから、無学文盲ということはないと思うんですけど≫。後に六祖になる慧能と、神秀の二人、≪この二人がものすごく家風が違うんですね。禅というのはこの二手に分かれるわけです≫。神秀という人は≪毎日毎日とにかくまじめにやっていないとお悟りは開けないんだというふうに考えていた人です≫。
 ≪師匠の五祖弘忍(ぐにん)大満という方が自分の今の心境を漢詩にして張り出しなさいと弟子に言うんですね≫。≪すると、この神秀は非常に素晴らしい漢詩を張り出す≫。≪「身はこれ菩提樹 心は明鏡台のごとし 時時に努めて払拭(ふっしょく)し、塵埃(じんあい)を惹(し)からしむことなかれ」というんですが、つまりこの身は菩提樹のようなものであると。お悟りを開く木ですね。心は明鏡のようのものだと。鏡に塵(ちり)がつくでしょう。塵、埃(ほこり)が。それを毎日奇麗にする。そうすると埃がつかない素晴らしい心ができ上がるということを言っている≫。≪それに対して、さっき申しました六祖慧能という方、この人は正式な修行僧というよりも台所の手伝いで、毎日石臼で米を搗(つ)いていたといわれる人です≫。≪神秀に対抗して貼りだした詩は、いちいち神秀の詩に逆らっていました。しかし老師から見ると、本質的なことをわかっているという詩≫だったわけです。≪「菩提もとより樹なし 明鏡もまた台にあらず。本来無一物 何れの処にか塵埃を惹かん」。実はこれ、菩提樹だというけれど樹木なんてどこにあるんだと。心は鏡だというけれども、そんな鏡台みたいなものを抱えているわけじゃないだろう。本来無一物なんだし、一体どこに埃が着くというのか、というふうに言っているわけです≫。
 ≪この二人の家風の違いで、即ち北宗禅と南宗禅というものに分かれるんです≫。≪神秀の毎日埃を払いましょうというのは北宗禅、儒教的な禅です。戒律を重視する戒律禅というものになります。これは、日本には伝わってきておりません≫。≪梅的な禅は伝わらなかった≫。≪日本に招来されたのは、この六祖慧能の系統で、南宗禅と言います≫。
 ≪ところがこの南宗禅として伝わった禅が、段々段々儒教化したということを私は申し上げたいんですね。つまり、どうしても江戸時代というのは朱子学が国家の学問になっちゃうわけですから、儒教的な価値観に逆らってはなかなか生き延びられない。ですから、元々桃の無邪気さをめでるような禅であったわけですけれども、礼儀作法を大事にするという、どちらかというと儒教的なものに変質していくということが起こります≫。
 ≪桃的無邪気さということを申し上げているわけですが、『老子』という本には、「笑わざればもって道となすに足らず」という言葉があります。素晴らしい道、本質を言い当てた道というのは、真面目な顔をしているもんじゃないんだと。聞いたら笑っちゃうようなものなんだよということを言っているんですね≫。≪老荘思想というのは非常に子どもを尊びます。老荘が一番理想とするのは「柔弱(じゅうじゃく)」ということで、柔らかく弱いということはじつは最も強いことなんだというふうに考えるわけであります。これは乳幼児の在り方ですね。そこに我々も回帰できないか、というふうに考えるのが道教であり、その道教の上に乗っかったのが本来の禅、とりわけ南宗禅であったわけです≫。
 ≪人は成長しますと頭を使ってものを考えるようになる。言葉や論理を使ってものを考えるようになる。これは、分別と言われます。「幼な子の 次第次第に智慧づきて 仏に遠くなるぞ悲しき」という歌があります≫。≪例えばまんじゅう一つの皿とまんじゅう二つの皿を子どもに出します。そうすると最初は迷わず二つ乗った皿に手を出すんですね≫。≪ところがしばらくすると、本当は二つの方が欲しいんだけども、気を遣うんですね。気遣いが始まる。どっちにしようかと迷うようになる≫。≪こうして智慧づくことで本来の無邪気さがどんどん失われていく。そこに理屈が絡んできて、理屈づけをしてくるわけですね≫。≪本当は二つ欲しいだろうと。そこに戻れないものならどうしようという発想が道教とか禅にはあります。ですから、人間が成長に伴って身につけていく分別に対しまして、禅が重視するのは「無分別」というものなんです。分別する以前の状態です≫。
 ≪私が修行していた道場である天龍寺の、私の師匠のそのまた師匠≫、≪私が道場に入った頃は、まだ健在だったんですね。毎朝毛糸の帽子か何かを被りまして、自転車で山内を散歩されるんです≫。≪毎朝決まったコースを決まった時間に散歩してますと、ある場所で必ず同じ男性にあったんだそうです。毎朝「おはようございます」と管長さんが声をかける。ところが返事しないんですね。毎朝あいさつをして返事しない相手に、皆さん何日あいさつをし続けられますか≫。≪あいさつって自然発生的なものでありますから、しろって言われてするあいさつなんか、あいさつじゃないと私は思ってるんです≫。≪自分があいさつをして相手が応えないという状況が続いたときに、一体何日続けられるだろうか≫。≪そりゃいろいろ分別しちゃいますよ。分別した挙げ句に説教し始める人が多いわけです≫。≪しかし、この関牧翁老子という管長さんは、毎朝あいさつを返さない相手に、二年間あいさつを続けたそうです≫。
 ≪その二年後に何が起こったのかというと、ある朝その男性が初めて「おはようございます」と応えて、その場に泣き伏したそうです。何が起こったのか詳しくはわかりません。しかし、そこで大きな変化がその方の中に起こったことは間違えないと思います。それは、きっと「あいさつをしなきゃ駄目じゃないか」と説教されることでは起こらなかった変化だろうと思うんですね≫。≪あいさつをしない相手に、二年間毎日あいさつができるという、そういうことは無分別じゃないとできないわけです≫。
 ≪変な言い方かもしれませんけども、キリスト教の方ではエデンの園に昔みんないたと言うわけですね。アダムとイブがそこにいたわけです。しかし智慧の木のみを食べてしまった。りんごを食べてから罪を知ってしまったというわけですね。罪のある人間がいかに上手に暮らしていくかという考え方がキリスト教です。これはじつは儒教にも共通しています。だから仁義や礼が大事になる。一方、老荘思想とか禅は、この智慧の木のみを食べる前の状態に戻れと言っているわけですね≫。
 桃という考え方に対して、≪梅という段々蓄積していって進歩していくという考え方≫は、≪若い頃はどうしようもないわけですよね≫。≪剪定してこういうのは邪魔だといって切っちゃって、好い木にしていくというのは梅の木の育て方なわけです≫。
 ≪教育というのはある意味でこの剪定がなくてはいけないだろうと思います。生命力の向かう方向があちこちばらばらでは、このエネルギーが十分に生かせない。ですから、エネルギーの向かう方向を一つに絞っていくという意味で、剪定というのは必要だろうと思うんです。儒教的な梅的な考え方の中には、人間が段々完成していくという考え方があります。段々よくなっていく。子どもは、まだ子供なんだからお前にはわかんないだろう。まだ小学生じゃわかんないだろう、中学生は、まだ子供じゃないかというわけです。しかしそうなると、いったいいつが最高なのか≫ということになる。≪ずうっと待っていたら、もうボケちゃったからわからない≫、≪いつの間にかピークを通り越しちゃったということになる。じゃあ、いつが最高なの≫。≪非常に難しいところでありますけども、孔子先生に言わせれば三十にして立つ。志を持って身を立てるわけですね。四十にして惑わず。五十にして命を知る。自分の立てた志が天命にかなっていたと自信を深める。そして、六十になると耳順(じじゅん)、反対意見を言われてもそれほど腹を立てない。この辺が全盛期でしょうかね。七十になると従心。心の欲するところにしたがって、しかも規(のり=おきて。決まりごと。標準)を超えずと言いますが、それじゃちょっとエネルギー不足じゃないかと思うんですね。その通り、孔子先生は七十四で死んじゃいます≫。≪儒教が段々よくなって、また段々衰えていく。これ欧米人の考える人生と一緒です≫。
 ≪しかし、道教、老荘思想では、大体五歳がピークだという一派もあるんです。この場合は、つまり大人というのは最低の状態ですね。
柔弱でもないし。しかし年をとるともう一度最高のときがやってくるんです。だんだんほどけてまた五歳に近づくんですね≫。≪しかし年齢で区分するよりも、禅では常に今が最高だと考えます≫。≪例えば今七十六歳だとしますと、今が最高なんですよ、なにしろ七十六年も待ってたんじゃないですか、今が最高のはずですよ。いつでも最高というんですかね≫。≪どこがピークかということで考えたら今の自分がピークなんですよ。丸い地球の上に立っている。どこに立ってても地球のテッペンに立ってるじゃないですか≫。禅では≪分別というのをできる限り捨てるわけです≫。
 ≪我々は大学で何を学んでいるのか、というと、主に分別だろうと思うんです。皆さんは地球が太陽の周りを回っているということを知っていますよね。しかし、地球が太陽の周りを回っているということを皆さんは実感できますか。例えば、今私は、そういう意味では秒速三十メートル以上の速さで移動しているんですよ。地球が回っているスピードで動いているでしょう。みんな動いているから動いていないように感じているだけです。しかし、そういうことを実感できないでしょう。地球が太陽を回っているなんてことは、本当に分別なんです。実感としては太陽が地球を回っているに決まっているじゃないですか。それでいいんじゃないですか。皆さんの実感の方を重視する。天動説でいいですよ。だって太陽が回ってくれているでしょう。私は宇宙の中心にいるんです。宇宙の中心で坐禅するんです。そこが、まだ分別が起こらない世界なんですね≫。
 ≪桃というのは無邪気と申しましたけど、言ってみれば影がないんですね。苦労を売り物にしない。梅って苦労を売り物にするところがあるんですね。寒ければ寒い程強い香を放つというでしょう。寒ければ寒い程、だから苦労すれはする程後でいいことがあると考えているわけです≫。≪後でいいことがあるんだよと思っていて大地震で死んじゃたりする≫。
 ≪例えばキリスト教では、大洪水がきてノア夫婦だけが生き残った。これに理屈つけるわけでしょう。ノアがもっとも信心深かったから生き残ったんだ、と≫。≪理屈でいわれると大地震で死んだ人はそれなりの理由があるということになるでしょう。どこか行いに悪い所があったんだろうと≫。≪隣のおじいさんは生き残って、うちのおじいちゃんは死んじゃった。うちのおじいちゃんは意地悪だったんだろうか、というふうに、単純に因果律で考え易い。そういう思考の構造を儒教とかキリスト教は持ってます≫。≪あなたがいいことをしてた、悪いことをしてた、そういうことと自然現象は関係ないと言うんです。死ぬもの生き残ったのも偶然ですよ。いいことをしていれば自然災害に遭わないなんてことはないわけです≫。
 ≪将来にいいことが起こるために努力するというんでは報われない可能性が強い≫。≪どうしたらいいのか。将来に貸しを残さない。今、満足してしまうことなんです≫。≪例えばその辺ちょっと雑巾がけをしてくれと言われますよね。何で私がやんなきゃならないんだろうと思いながらやっている。我慢してやってる。これはやっぱり、精神衛生上もよくない≫。≪禅をやると、そう思いながら雑巾がけなんかやらないようになるわけです。どうせやらなければならないならば、それを自分の楽しみに変えていくしかないでしょう。雑巾動かしながら自分の筋肉の動きに意識を向けていくとか、それに呼吸を合わせていくとか、自分のやり方に変えていくわけです≫。
 ≪よくお通夜なんかに行くと、もう定年でようやくこれからが楽しい時が始まると思っていたのに、とみんな言うわけですね。そんなことを言っていたら、そんな時はいつになっても来ないですよ。今日の分の楽しみは今日もらっちゃわないと。今日は我慢してやったというのは今日を冒涜しちゃったようなものですよ。いやー、いい一日だった。このまま死んでもしょうがないなと≫。
 ≪道元禅師のおっしゃった「修証一等」ということであります。修行と悟りは一つで等しい。悟るために修行するんじゃないと言っているわけですね。修行そのものが悟りだと言っているんです。それはつまり、結果を後に期待して今を我慢するわけじゃないということであります。今やっていることから楽しみもそっくりいただいてしまうんですね≫。≪これの達人が観音様という方なんです。あの人は何をやっても遊びとしてやってますから。道元禅師や観音様に学んでいただきたいことであります。梅が正しさを主張するのに対して、桃というのは楽しさを主張しています≫。
 ≪よく心配症の人なんかが今の心配事が亡くなったら、きっと私も楽になるんじゃないかと言って心配している人がいますよね。でも、心配の種ってなくならないってご存知ですか。絶対なくなりませんよ。心配症の人は一つのことが終わったら、必ずあっという間に次の心配の種を捜してきます。そして、必ずそれは見つかります≫。≪心配の種は決してなくなりませんから、心配するか安心するかは、たった今どっちかを選ばなきゃいけない。心配する人はずっと心配してます。安心する人はそこで安心できるんです。たった今安心するんですね≫。
 ≪これが桃の無邪気さでもあり、頓悟(長期の修行を経ないで、一足とびに悟りを開くこと)なんです≫。≪柳は緑で、花は紅。何だそれは。普通それだけじゃ意味通じないでしょう。田中君は優しくって鈴木君は勉強ができると言っているだけでしょう。分別しないとそういうふうになるんですよ。
でも皆さん分別しますから、田中君と鈴木君はどっちが頭がいいの、どっちが優しいの、と聞くんですね、それは分別なんですよ≫。≪田中君は優しい、鈴木君は何と頭がいいだろう。二つ並列して、それでいいじゃないかと言っているんです。どっちが優しいのって、他人との比較で考えるなよ、と言ってるのが禅なんであります。その人の魅力がドーンと伝わってくる、それが優しさであったり、頭の良さであったり、いろいろなんですよ≫。
 ≪桃一辺倒では社会生活はうまくいかない。梅も必要です。しかし、人が幸せになるのは梅じゃないんです。桃的になった時なんです。笑った時なんです。無邪気になれた時に幸せを感じるんですよね。そういうわけでありますので、これから桃を見たらそういうことを思い出しならが、笑っていただければ幸いでございます≫。
 大変長文で恐縮ですが、以上で終わります。

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