<第54回>藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第1回ー

―― 藤田一照さんと伊藤比呂美さんのご紹介 ――

今回から、藤田一照さんと伊藤比呂美さんの対談が中央公論新社から上梓されておりましたのでそれを取り上げます。表題は『禅の教室』。私どもの市川静坐会では、新到者(禅の世界では、新しく修行を志して来られる方をこう呼びます)がよく見えられますが、その方たち、及び前から来られている方々にも修行を始められたときの原点を思い起こしていただくためにも、「坐禅とは何ぞや」という解説書、ただ、余り平易でないものを選んで皆さんと輪読をしております。この本もその一つです。また例によって、≪≫で括った部分は本書に載っているお二方の言葉です。又(※ )で括った部分は筆者の脚注です。

<藤田一照さんのご紹介〉
 ―ふじた いっしょう―1954年愛媛県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程を途中退学し、曹洞宗僧侶となる。87年に渡米し、禅の指導、普及に従事。2005年帰国。現在、曹洞宗国際センター長。著作は『現代坐禅義』など。
<伊藤比呂美さんのご紹介〉
 ―いとう ひろみ―1955年東京都生まれ。青山学院大学在学中から詩を発表。78年、現代詩手帖賞を受賞してデビュー。近年は、仏教経典や仏教説話の現代語訳などに取り組み、『読み解き「般若心経」』『たどたどしく声を出して読む歎異抄』『新訳 説教節』などの著作もある。97年からカルフォルニア州に在住。

 初回として、藤田一照さんの書かれた「はじめに」と、伊藤比呂美さんの「おわりに」を最初にご紹介しておきます。本文を読む前から「おわりに」も変な話ですが、それぞれにお二方のこの対談を終わられての思い、感じられたことが非常にクリアに書かれているので、本文を読むに当たっての大変参考になると思います。

 ≪はじめに
 自分を「海千山千(あたし)」と呼ぶ詩人と寺を持たない禅僧の因縁の出会い

 自分と同世代の詩人・伊藤比呂美の存在はずっと気にはなっていた。しかし、まさか、因縁がめぐりあって、その当人とこうして禅をめぐって対談し、はては手取り足取り坐禅の指導をすることになろうとは、人生何が起こるかわからない。
私が大学生のころ、性や生殖の関する言葉をちりばめたユニークな詩を書く伊藤比呂美という女子学生が青学(青山学院大学)にいるという噂は耳に届いていた。別に現代詩に特別な関心を持っていたわけではないけれど、その噂の詩をいくつか読んでみた。こんな過激な詩を書くのはどんな女だろう、よほどの変人なんだろうなと興味が湧いた。それからしばらくたったころ、その伊藤比呂美の恋人がなんと私と灘高時代に同期だった比較文学者の西成彦君で、彼女が彼の後を追いかけてポーランドに飛んで行ったらしいと驚くような風聞が伝わってきた。
そのことは全く関係がないのだが、その年、思うところがあって私は、大学院を中退して兵庫県の山中にある禅の修行道場に入門し、翌年あろうことか僧侶になってしまった。六年の後、師の命を受けて渡米し、サマチューセッツ州西部の林の中にある小さな坐禅堂で住持(=一寺を管理する主僧。住職に同じ)として17年暮らした。齢五〇にして家族とともに帰国して日本での新生活を始めた。五年がたった頃、一通の電子メールが舞い込んできた。「件名」には「伊藤比呂美です」とあった。驚いた。
私は帰国後、NHKラジオ「ラジオ深夜便」でインタビューを受けたことがある(それは「私のアメリカ禅修行」というタイトルで放送された)。そのときディレクターだった故上野重喜さんが、二年後の同じ番組で「お経再発見の日々から」という比呂美さんのインタビューを手掛けたそうだ。彼女から届いたメールには上野さんから私の話を聞いていたく興味を持ったからメールしたと書いてあった。その頃の彼女は西君とはもう離婚していて、イギリス人のパートナーと一緒にカルフォルニアに住んでいた。彼女も、わたしと西君が高校の同期だったということに驚いたようだ。これが縁で、仏教や経典に関する質問に私が答えるという形でメールを時たまやりとりする間柄になったが、直接会う機会はなかなか訪れなかった。彼女も私もそれぞれいろいろあって、とてもそれどころではなかったのだ。
2014年8月、私は真言大谷派名古屋別院で5日間にわたって毎日早朝行われる暁天講座に講師として呼ばれた。その案内を見て仰天した。私は二日目の講師だったのだが、初日に話をするのが伊藤比呂美となっていたからだ。さっそく彼女にメールしたら、是非会いたいので予定を変更して名古屋にもう一泊して待っていてくれるという。こうして大学生のときに彼女の名前を初めて聞いてから、ほぼ40年後にナマの伊藤比呂美に対面することができた。夜、名古屋についてホテルの近くの飲み屋で二時間あまり、お互いの来し方や仏教のことなど一気にしゃべりあった。旧知の知り合い同士が再会したような感じで、実にフランクにリラックスしてしゃべれたのは不思議だった。一丁前の大人になってからアメリカにわたり、長年そこで苦労してきた経験をシェアし合える間柄だったからだろうか。共通の男性をかたや元夫として、かたや同級生として知っているせいもあっただろう。どちらも仏教や禅に相当の思い入れを持っているということもあったに違いない。
いずれにせよ、当時、中公新書の編集者から禅の本を書いてほしいと頼まれていた私は、この飲み屋での雑談で「禅をめぐる伊藤比呂美との対談を本にしたら絶対に面白いはずだ」と確信したのであった。そんなわけで実現したこの異色の二人の「禅の教室」は、中央公論新社のオフィスと私が管理している別荘の二か所で三日間にわたって行われたものだ。事前の大まかな打ち合わせもどこへやら、話し出したら二人とも魂のまにまに漂って、互いの関心がおもむくままの自由連想的なやりとりを楽しんでしまった。二人の性格からしてそうならざるを得なかったのかも知れない。そのことで、かえって類書にはない、多岐にわたる話題をカバーできたのではないだろうか。比呂美さんは仏教や禅についての自らの無知を一向隠すことなくストレートに「それって何よ?」と切り込んできた。小気味がよかった。
想いで納得し、言葉で理解することにとことんこだわる比呂美さんを相手に、思いでは思えないこと、言葉では言えないことを坐禅で体得させようとする禅の立場に立つ私がどこまでギブアップせずに、辛抱強くくらいついていけたか、それは読者諸賢のご判断にお任せするほかない。比呂美さんとのエキサイティングな対談は、禅堂やあちこちの瞑想センター、寄宿生の高校や大学の教室において、自分の母国語でない原語で、熱心に有縁(うえん)の人たちに向かって、禅を語り、坐禅を指導していたアメリカでの楽しかった日々をなつかしく思い出させてくれた。
仏教の学者や研究者でなく、寺を預かる住職でもない、還暦を過ぎた一介の坐禅修行者に過ぎない者が、人間として、女として、妻として、母として、娘として、それこそあらゆる生きる苦しみの味を舐めてきた筋金入りの「海千山千(あたし)」になった詩人に、なんとか仏教の奥深さ、禅の魅力、坐禅の醍醐味の一端を伝えようとして不器用に奮闘した記録として読んでいただけたらと願っている。 藤田一照≫。

 ≪おわりに
ぱっとでんきがともったように

 一照さんは面白い。その動くさまを見ているだけでも面白い。動物のようだ。とらわれていないし、とりとめがない。スポンティニアス(※ 「人体自然発火現象」と呼称され、「燃えてしまった人の周囲には火気がなかった」などの理由により「人間が自然に発火した」と判断し(実際にあった)、こう呼称したそうです。本書では、体内のアドレナリンがマックスに達したか(?)、自然体でありながら眼前の物事に情熱的である、というような状態なのでしょう)な人というのは、この人のことかもしれない。飄々(ひょうひょう)として、くにゃくにゃとして、ぬらりひょんで、スーダラ節でも歌わせてみたい。
 名古屋での初対面のときから、四十数年前に同級生だったのは前夫ではなくて私だったと言いたいような親しさを感じた。
2015年の夏には、曹洞宗の禅のイベントに私も呼ばれて、大勢の参加者やお坊さんたちといっしょだったが、とりとめのなさにかけては、一照さんの右に出るものはいなかった。一照さんもちゃんと僧衣を着てスタッフの一人として立ち働いていたのにもかかわらず、である。このとりとめのなさ、それを自由さと呼んでもいいと思うけど、それは生来のものでもあるのだろうし、修行の結果でもあるのだろう。そんな禅僧に出会えたこと、何日もかけて話し込み、手取り足取り教えてもらったこと、一生の宝と思っている。
 私が仏教に傾倒してから、もうずんぶん月日がたつ。仏教というものが少しでも分かったかと言われれば心許ない。仏教的な何をやっているかと聞かれれば、経典を読んで訳している。仏教説話を読んで訳している。それから植物に水をやって、犬と散歩して、日没を見ている・・・・。そんなものだ。これも仏教修行のつもりでやっているのである(そういう修業もOKと『発心集』には書いてあった)。
 経典にはわからないことがいっぱいある。それで解説書や研究書を読むが、むずかしくて、ブラックボックスの隠語だらけで、重箱の隅をつつかれ、言葉の意味をひねくり回され、なかなか頭に入らない。このわからなさは、そもそも私に哲学とか思想とかいうものを理解しようという頭がないからじゃないかと不安になっていた。でも、私は前生で善根を積んだようで(『日本霊異記』を読むとそう思える)、その頃、いろんな人に続けざまであった。対話が『先生! どうやって死んだらいいですか?』(文藝春秋)の形になった山折哲雄さんもその一人だし、浄土宗の足立俊英さん、浄土真宗の有國智光さん、新約聖書の山浦玄嗣さん。そして禅が、まさにこの一照さんだった。
 まえがきで一照さんも書いたように、NHKの「ラジオ深夜便」の上野重喜さんに一照さんを紹介してもらって、しばらくメールでやり取りしていたが、私の投げかける質問に対して、いつもぱきぱき音が鳴っているような明快な答えが返ってきた。檀家向けの噛み砕いたことばでなくて、アカデミックな、ただ今翻訳中みたいなことばで、がつんがつんと語るのだ。そこに、ことばのエネルギーと知的なエネルギーがきりきりに張りつめているみたいだった。アカデミックな、つまり学者の使うような言葉が嵩じて、仏教はブラックボックスだらけになったわけだが、そしてそれに付いて本文中でさんざん文句を言っているのは私なのだが、何千年にもわたる学者たち、研究者たち、翻訳者たちの苦労があったからこそ、この学問、この思想が、ここまで面白くなったことには間違えない。
 一照さんはよく動く。全身を使って坐る。全身を使って説明をする。ものすごく運動神経のいい人なんだと思う。子どものころから体を使って走り回り、ボールを追いかけ、缶けりをして、塀や木にのぼり、川に飛び込み、どろんこになって親に叱られ、というふうに生きてきたのではあるまいか。
 私は、子供のときはろくに動かない子供だったが、中年過ぎに鬱で死にかけてから、体を動かすことの重要さに気がついた。しかも若いときから体をテーマに書いてきたから、その表現は手のうちにある。だから一照さんのアプローチがおもしろくてたまらなかった。でもやはり詩人であるから、机に向かって考えを詰めることで言葉を生み出す。坐禅に向かい、理解しようと思うときにもまた、体より頭で考え詰めたくなっちゃうのだ。対談の間もしばしばそんなところに陥った。すると一照さんの言葉が炸裂した。的確で、飛び跳ねていて、どこまでもむずかしく、そしてわかりやすかった。
 対談を始めてすぐに、「仏教の教義って何ですか?」と聞いたとき、「え? こんな初歩的なところから?」と一照さんはのけぞっていたが、実際どんな初歩的に遡ったって、溯りすぎということはないくらいの私である。一照さんが「縁起とはつながりだ」と教えてくれたとき、私の頭にぱっとでんきがともったようになって、仏教の本質というものがすっと入ってきたような気がする。
 このごろ、坐禅をいろんな人に勧めている。私は某紙で人生相談を受け持っているが、寄せられる相談には、坐禅しかないかもという状況がいっぱいあるのだ。もっと坐禅がラジオ体操のように日本文化に定着すればいいのに。物心つくくらいの中学や高校で、小学校のラジオ体操みたいに、坐禅の時間を設ければいいのに。公立学校で宗教を教えるのがいけないのだったら、禅僧は、ただのおとなとして、仏教の隠語を使わずに坐禅を教えればいい。そうしたら、いろんな折々に、自分で自分を調えて、人生を救える。 伊藤比呂美≫
 以上です。次回から本文に入りたいと思います。

カテゴリー: ブログ, 輪読会 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です