【序章 そもそも禅ってなんですか?】
―― なぜアレもコレも同じ「仏教」と呼ばれるの? ――
藤田一照(以下、一照) 比呂美さんは『般若心経(はんにゃしんぎょう)』や『歎異抄(たんにしょう)』を現代日本語に訳しておられる、昔から仏教に興味があったんですか?
伊藤比呂美(以下、比呂美) いいえ、全然。お経が好きなんですよ。最初は仏教説話の『日本霊異記(にほんりょういき)』を愛読して、それを現代語訳したりして、いろんな仏教的なものに触れ、だんだん興味が広がりお経を読むようになった。漢訳された大乗仏教のものが好きなんです。詩として、語りとして、すばらしい。お経は、その昔、町から町、村から村、辻から辻へと人々が語って歩いたものじゃないですか。それに気がつくと、昔はただのお経だったのが、生き生きした「語り」だったと気がつく。私は現代詩の中に「語り」を入れたいとずっとやってきました。そんな好奇心で、お経の現代語訳もやってみたの。
一照 お経を語り物としてとらえたの? 詩人として。
比呂美 主要なテキストはだいたい読みました。けれど、仏教の専門的な話は分かりません。特に禅は難しい。坐禅の経験はありますが、禅についてはほとんど知らない。一照さんにいろいろ教えてもらおうと。ですので、普通のおばさんとして、素朴な質問をさせてください。
仏教には、その中身もずいぶん違っているいろいろ宗派があるのに、なぜ同じ「仏教」と呼ばれているんですか? キリスト教では、神がいて、イエスがいて、聖書がある、それは一貫しているのに、仏教ではお釈迦様のやったこと、中国の仏教、日本の法然や親鸞の教え、とまちまち、それが私にはずっと疑問なんです。
一照 仏教と一口にいっても単数形じゃなくて複数形で、現在の仏教もざっくりと「大乗仏教」「南方仏教」「チベット仏教」の三つがありそれが共存している。さらにそれぞれにまた違う宗派がある。「仏」という言葉にしても、大乗仏教では歴史的な人物としての開祖ガウタマ・シッダールタ(㊟ おしゃか様の本名)も指しますが、永遠不滅の絶対的真実としての法身仏を意味することも多いんです。
アジア地域では、この三つの仏教はそれぞれ棲み分けができているけれど、たとえば、アメリカの仏教に関心の高いニューヨークやサンフランシスコといった地域では、一つのブロックの中にこの三つの仏教のお寺や修行道場などが共存しています。
仏教ではどの宗派もとりあえず「自分たちの教えはあのインドのおしゃかさんの覚りから来ている」という、大まかな点で一致している。
比呂美 一致していると思えないです。宗派によって経典もその内容が全然違う。例えば親鸞の『正信偈(しょうしんげ)』などを見ると、信仰する対象は阿弥陀如来で、釈迦如来は、何人もいる偉大な祖師たちの一人だ、といっている。必ずしもお釈迦さんが中心ということではないということですね。
一照 キリスト教と比較すると分かり易いが、キリスト教では、イエスという人物がいて、(㊟ その存在と)キリスト教の教義そのものは切っても切れない関係です。そのものすごい生涯を送ったイエスこそが唯一の救世主キリストであると信じるのがキリスト教の根幹になっている。
ところが仏教では、開祖である釈尊はとてつもなく素晴らしい人だという尊敬の念は確かにあるけれど、かれが説いた教義そのものはその人がいなくても成り立つという(㊟ 考え方が根幹にある)。
比呂美 お釈迦様がいなくても仏教の教義は成り立っている・・・。
一照 大乗仏教なんかは、本来成仏といって、われわれはもうすでに仏だなんて言うわけだから、仏陀はシッダールタ一人だけじゃなく、理論的には何人でも存在できます。それをシッダールタが発見したにしても、彼とは無関係に既に成り立っているものなんです。万有引力の法則はニュートンが発見したにしても、その法則自体はニュートンとは無関係に成立しているのと同じです。物理学で大事なのはニュートンよりも万有引力の方でしょう。仏教では教義のことを「法(ダルマ)」と言います。
比呂美 ところで、お釈迦様のことを「ブッダ」、漢字で書くと「仏陀」。(その他に)「ガウタマ・シッダールタ」、「お釈迦さま」、「釈尊」、「如来」、「仏」とかいろいろ呼ばれている。(そのへんも)仏教がよけいわからなくなっているような気がするんです。
一照 (㊟ みな同じです)僕は、「目覚めた人」「悟った人」という人間のあるクウォリティを意味する場合を「ブッダ(仏陀)」や「仏」。仏教の開祖としての歴史的人物を指す場合、敬意を込めて「釈尊(㊟ 釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)の略。釈迦族から出た聖者の意)」と呼んで区別してきました。(比呂美さんとの)二人の間では(親しみを込めて)「シッダールタ」とよぶことにしましょう。
比呂美 「法(ダルマ)」ってなんですか?
一照 シッダールタ自身も、最初は「自分が悟った法(ダルマ)というのは、たぶん誰にもわからないだろうな」と言っているんです。「私が悟ったダルマというのは非常に微妙で深遠だから、欲望の追求にうつつを抜かしているような世俗の人たち、つまりかつての自分が属していたような世界の人たちにはとうてい理解できないだろう」と。
今回はここまでと致します。