<第56回>藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第3回ー

【序章 そもそも禅ってなんですか?】
※ 今回は「序章」の2回目です。

―― 仏教の基本的なおしえとは ――

伊藤比呂美(以下、比呂美) ダルマ(㊟ 仏法、法)についてもっと詳しく教えてもらえますか。
藤田一照(以下、一照) ダルマというのは漢訳では「法」と訳しますが、もともとは、シッダールタ(㊟ お釈迦さまの本名)の生まれる以前から古代インドにあったバラモン教の中ですでに多数使われてきています。インドの文化で一番大事だと思われているのは「秩序」のことだと思われます。
比呂美 インドの文化で大切な秩序って? 社会の秩序?
一照 社会だけでなく、もっと大きく宇宙の秩序といってもいい。とにかくインドでは、秩序を乱すことが最悪のことなんです。「今までのものの在り方を変える」のが即ち「秩序を乱す」こと。彼らの見方では、すべてのものにその「分(ぶ)」がある。日本語でいう「分をわきまええる」の分ですね。すべてのものが自分の本分を尽くしていれば、宇宙はちゃんと秩序だって動く、これを守り続けることが一番大事なのだと。
比呂美 でも本分というものは、それぞれのものにもともとついている実質でしょう。もともとある実質だったら、乱れないじゃないですか。どうやって乱れるの?
一照 (㊟ その本分という実質を)ダルマというんです。(㊟ それを乱すものは)例えば欲望とかを考えてみる。人は「もっとうまいものが食いたい」、「もっと出世したい」とか、いろいろな欲望を持っている。だから秩序を乱しがちになる。秩序の重視が(インドの)カースト制度の背景にある。カースト制というのは前世からのカルマ(㊟ 「業=ごう」あるいは「行い」で、因果応報の原因になるもの)の結果で、(たとえば)トイレ掃除する身分に生まれた人は、今世でもそれが本分なのだから、文句を言わずにその仕事にベストを尽くすべきだと。
比呂美 そういう意味のダルマと、仏教でいうダルマとは、また違うわけですよね。
一照 仏教ではダルマにさらに独自の意味合いを込め、微妙に異なります。「ブッダが説いた教え、教法」という意味もあれば、「宇宙の法則」、またその法則によって支えられている一切の事物を指す場合もある。非常に多岐にわたっています。
比呂美 三つとも全然違いますよね。
一照 違うんですけど、仏教の考えの中では潜在的に関連しているので、全部ダルマという。だから他の言語に翻訳しにくい。
比呂美 宇宙といえば、「如来」は「如」から宇宙の真理が「来た」という意味ですよね。
一照 シッダールタが菩提樹の下に坐って、ダルマに目覚めたときの第一声の有名な言葉が、「奇なるかな、奇なるかな、一切衆生(いっさいしゅじょう)悉(ことごと)く皆如来の智慧と徳相(とくそう)を具有(ぐゆう)す」だとされています。(僕なりに)ざっと意訳しますと「不思議だ、不思議だ。山も川も木も草もすべての生けるものが如来の智慧を備えて輝いている」ということなんです。如というのは「言葉でいえないもの」で、「そのあるがままの真実」という意味だから、僕は如というのは縁起のネットワーク、縁起の網の目全体であると解釈しています。縁起の網の目は無限にあって、互いに影響を与えながら連動している。「わたし」を含めて、すべてがそういう形で存在している。その全体を指して如という。だから、如来とは、如からやって来た者、真理の体現者というような意味になります。
比呂美 「如とは縁起の網の目の全体」というときの「縁起」とは何ですか。
一照 僕は、縁起とは、つながりだと言ってます。例えば僕らは普通、自分がここに居て、それとは別に存在している世界が周りにあって、いろいろなことが自分の身に降りかかってくると感じている。点としての自分が中心にあって、その周りに自分とは別の人や物が点みたいにバラバラに存在する、と世界というものを受け止めている。そのバラバラの点在にコップとかテーブルとかそれぞれ名前がついている。しかし、これは便宜的に名づけているだけで、実体的としては独立してあるのではなくて、最初からすべてがつながって存在している。それをネットワークとか網の目といったんで、それが「縁起」の教えです。それらが関係し合うんじゃなくて、まずつながりというか関係性があって、それらが「点」のように見えるものとして浮き立って見えている。
比呂美 それが因果、つまり原因と結果としてつながっているということ?
一照 「因と果」(㊟ 原因と結果)という一方的・単線的なつながりではなく、最初からすべてが「縁」という間接的な条件も含みながらがつながって存在している。私は相互関係性とか関係性のネットワークといっています。一方的なつながりではなくて全方向的なつながりです。
比呂美 この世は全て関係性の網の目の中にあるということですか。すごいですね。これは完全にシッダールタという人が考えついたことなの?
一照 シッダールタが考えついたというよりも、そういう在り方で自分も含めた宇宙ができて動いていることを初めて発見して、それを表現したと言ったほうがいい。そんな革新的な考え方をした人は、それまでいなかった。だから「誰にも理解できないだろう」と思ったかもしれない。

―― 仏教の言葉を開きたい ――

比呂美 お経を翻訳していていちばん感じる難しさは、「縁起」とか「因果」、あるいは「阿弥陀」、さっきの「仏陀」や「釈尊」もそうですが、それらの言葉が私たちの文化の中に既に定着し、それを普通に使っていること。それをいざ翻訳しようとすると、(わかった積りになっているけれど)本当の意味が伝わらない。だから(私は)そういう言葉は使わずに、別な言葉で言い換えるようにしている。
一照 もともと仏教の教えである「縁起」は、一般にいう「縁起がいい」「縁起が悪い」の語源になってますが、意味というか使い方が違い、もともとの縁起にはいいとか悪いという形容詞はつけられない。
比呂美 そもそも縁起の意味は、つながりですか。ここにいる自分は独立して在るのではなくて、前の生からつながってくるということですね。
一照 シッダールタの言葉で「此(こ)れ有れば彼(かれ)有り、此れ生ずるが故に彼生ず。此れ無ければ彼無し、此れ滅(めっ)するがゆえに彼滅す」とあります。これあるから、あれがある」ということ。その逆に「これがないから、あれがない」ともいう。「これ this」とか「あれ that」というのは具体的なものを指しています。網の目ですね。たとえば人間だったら、「私がいるからあなたがいる、あなたがいるから私がいる」となる。
比呂美 素敵ですね。それが仏教の基本、シッダールタの発見した「悟り」なんですか。
一照 悟りを発見したんじゃなくて、ダルマを発見したのを悟りと呼んだんです。悟るって、知るとか理解する、会得するってことですから、そういう縁起の洞察が悟り。それを「無我」という人もいますが、無我も縁起を元にしているから派生語なんですよ。
比呂美 それは何ですか。
一照 無我というのは、そのものが自分だけで単独に存在しているものではない、これがあるからあれがある、という式を展開してゆくと無我になる。
比呂美 無我というと、自分を無くすみたいなニュアンスに読めてしまうけど、この我はそういう「われ」じゃないのね。
一照 日本語だと我は「我が強い」とか「我を無くす」のように、しばしば自己中心性のようにとらえられますが、無我というときの我は、もっと限定された仏教的意味があるんです。ほかと関係なくそれ自体で存在する力を持っているものという意味です。これをサンスクリット語でアーマンといいます。このアーマンと対になっているのがブラフマン、日本語では「梵(ぼん)」の字を当てます。
比呂美 アーマンとブラフマンっていうのはよく見かけるけど、全然わからない。
一照 アーマン(我)は個人の本体として考えられているもので、それ自体で存在し、他とは全く無交渉、無関係に独立自存しているんです。だから永遠不変の実態。一方、ブラフマン(梵)が宇宙の本体、根本原理のことです。そこで(㊟ 昔のインドでは)瞑想によってアーマンとブラフマンが本質的の同じものである、つまり「梵我一如」を悟ることによって輪廻転生の繰り返しから脱出することができるというのです。それに対し、シッダールタはむしろ梵とか我といった教義に批判的で、「アーマンなんてものはない」と主張した。
比呂美 シッダールタはアーマンを否定したわけですね。
一照 そうです。我(が)として認められるものはない、というのが無我ですから、仏教の考え方では、すべて変化するものでアーマンのような永遠不滅の「例外」的存在を認めないんです。「縁起」というのは別の言い方をすると「すべては条件(縁)によって生起(起)する」ということだから、アーマンみたいなものが存在する余地がない。例えば「紙」。この紙がここに存在するためには、人間の労働ももちろん、紙のもとになるパルプを作るための木が育つのに、大地も太陽も空気も雨も必要だったでしょう。まさに「此れ有れば、彼有り」ですね。それが縁起の考え方で、仏教はこれで全部一貫しているんです。

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