<第57回>藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第4回ー

【序章 そもそも禅ってなんですか?】
※ 今回は「序章」の3回目です。

―― シッダールタ(㊟ お釈迦さまの本名)の歩いた中道とは何か ――

伊藤比呂美(以下、比呂美) さっき、シッダールタの悟りは「世の流れに逆らうもの」といっしゃいましたね。あれはどういう意味なんでしょうか。
藤田一照(以下、一照) 仏伝によると「私が悟ったダルマ(㊟ 仏法、法)を人々に流布しようとしても、理解されずに徒労に終わるだろう。だからこのまま涅槃(ねはん)に入ってしまおう」と法を説くことを躊躇(ちゅうちょ)したということになっている。もちろん後世に作られたフィクションだけれど、それでは困ると、梵天(ぼんてん)という神様が天から降りてきて説得した。そして、二度断って三度目に「では、かつて自分と一緒に苦行をした五人の仲間たちだったら、私のいうことがわかるかも知れないから、まず彼らに法を説こう」ということでやっと坐から立ち上がった。そして、昔の修行仲間のところにダルマを説きに歩いていった。その昔の修行仲間にしてみれば、一緒に苦行をしたシッダールタは苦行を途中で捨ててしまった情けない奴なので、あんな奴は無視しろと。
比呂美 シッダールタはかつて、修行で挫折をしたの?
一照 彼らには、そう見えた。シッダールタは城を出た後、当時主流だった既成の宗教的行法(=ぎょうほう)を徹底的にやってみたんです。瞑想と苦行ですね。でもそれでは自分の問題は解決しないということがわかった。そこで彼は自分独自の道を切り開いたわけです。新しい宗教的パラダイム(物事を考える上での基本的な枠組み)を開いた。そうやって目覚めた人間というのは、何かオーラみたいなものが外に出てきているのでしょうね、その威厳に満ちたシッダールタの姿を見てみんな思わず拝礼をしてしまった、というのです。中の一人が、「シッダールタ、あなたは昔のあなたと全然違うじゃないですか」というと、「もう私はシッダールタではない。如来と呼びなさい」といい、「私は目覚めたものである」というのです。そこでまた「あなたは何に目覚めたのか」と聞くと、「私は中道(=ちゅうどう)に目覚めた」と応えます。
比呂美 「中道」って何ですか?
一照 中道というのは、二つの行き詰まり・・・通常は、「二つの極端」と訳されていますが、そのどちらからも離れた道のことです。一つの「行き詰まり」とは感覚的な快楽に溺れている生き方。もう一方はその逆で、自分の心身を責めさいなむ苦行的な生き方。シッダールタ自身も釈迦族の王子だったので、城の中では快楽を追求する生活を送った人だということになっている。そして城を出た後はそれとは反対の、非常に厳しい禁欲的な苦行をやった。当時の宗教的な修行法として、自分を責めさいなんで自己の存在を否定するようなものと、その対極にあるのが、快楽至上主義的に生きるということ。苦と快というように一見対照的だけど、どちらもがその中に溺れているという点で共通しています。生き生きとしてポジティブな展開がないので僕は「行き詰まり」と表現しています。快は世俗、苦は宗教を象徴している。シッダールタはどちらも結局行き詰まりだと見たわけです。そのどちらからも離れた第三の道として「中道」を自分は見出したと宣言した。
比呂美 修行のやり方は中道で行けと?
一照 修行というよりその人の生き方ですね。偏りのないバランスのとれた生き方。どちらにも落ち込まない。体操の平均台の上を歩いている感じで、うまくバランスを取りながら生きていく。
比呂美 でも、もしかしたら苦行の果てに、何かいいこと見つかるかもしれない。最後にはどこかに辿りつけるかもしれない。逆に、快楽ではなんでダメなのですか。
一照 そこで、シッダールタは「八正道(はっしょうどう)」というものを提唱した。シッダールタは「このままの生き方を続けていったら、この先行き詰って何にもならない。死ぬに死ねない。」ということを認識できる才能を持っていた人なのだ、と思う。そこで、行き詰った生き方とは違う、「道」に的中した行き詰まりのない生き方を見つけたと宣言したんです。「中道とは八正道である」と。
比呂美 八正道とは、文字どおり「八つの正しい道」と取っていいですか。
一照 そうですね。正は「真理にかなった」「調和のとれた」という意味。順番に正見(しょうけん)、正思(しょうし)、正語(しょうご)、正業(しょうごう)、正命(しょうみょう)、正精進(しょうしょうじん)、正念(しょうねん)、正定(しょうじょう)といっています。ワンセットで人生全般の生き方をカバーしています。
比呂美 素晴らしい、とは思うけど、こういった“仏教用語”ではなくて、シッダールタが言いたかったことがそのまま伝わるような、自分の体の中にそのまま溶け込むような(得心?)、そんな表現ができたらいい。
一照 でも、仏教らしさを失わないで普通の言葉で説明するというのはそんなに簡単じゃないんですよね。

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