座禅・禅語について

  • 禅語について

    「禅語」そのものに付きましては、皆さんもよくご存知だと思います。
    掛け軸や色紙などに書かれていて有名な〔一期一会(いちごいちえ)〕とか〔日々是好日(ひびこれこうじつ)〕などがそれで、また、私共が日常生活でもよく使う〔以心伝心〕だとか〔三昧(ざんまい)〕、〔単刀直入〕なども禅語です。また、私たちが普段よく使っている〔挨拶(あいさつ)〕や〔自由(じゆう)〕、〔元気〕という言葉も実はその出所は禅の言葉なのです。

    禅の世界では「不立文字」という言葉があります。これは「禅の本当の精神を伝えるには文字や言葉に頼っていては限界があり本当のところを伝えきれない」という意味です。では何故「禅語」という【言葉】があるのでしょうか。それには「禅の本当の精神」を代々伝えていくための禅独特の文化があります。

    禅宗では、師匠(通常「師家」と呼ばれ、そのような人たちは尊敬の念を込め「老師」と呼ばれます)がその弟子(禅の修行者であり、「学人」「会下」と呼ばれることがあります)に「禅の本当の精神」を伝える(或いは「会得させる」と言ったほうがふさわしいかも知れません)のに、上でも述べましたように、禅は基本的には「不立文字」であり、それ故その〔心(精神)〕を伝える方法は「以心伝心」なのです。ですから、禅ではその「精神」を〔言葉を尽くして解らせようとする〕ようなことはしません。弟子たち(修行者たち)は自分たち自身で只ひたすら座って(座禅をして)自得(自分が努力して得る)するのです。

    けれども、師家も「この者に是非『禅の心』を会得してもらいたい」という思いは常にあります。そこで、【ヒント】となるような言葉をその修行者に投げかけるのです。

    「禅の心」は、修行者が自分で苦労をして(努力して)、自身で掴み取らないとその人の血肉になりません。「自分で得る」から「禅の心」がその人にとって価値があり、その人の人生の全うする上で役に立つのです。ですから、それを師家が〔教えてしまって〕は全く意味がないので決して〔教える〕ことはしません。ですが、ヒントはヒントですから、何か「きっかけ」となるような隠喩のこもった(その伝えたい「禅の心」のエキスがたっぷり込められた)、ごく短い【言葉】にしてその修行者に投げかけるのです。それが「禅語」なのです。

    そして、師家はその修行者の力量(境涯といいます)に合わせて〔言葉を選ぶ〕ので百人百様になり、ほとんど無尽蔵にあると言えます。そして、その内容は、上で挙げた一般的によく使われるような〔解り易い〕ものはむしろ少なく、「隠喩」ですので非常にシンボリックなたとえ話のようなケースが多く、それらはただ字面だけ見ていたのでは意味不明なものがほとんどです。それがいわゆる「禅問答」と呼ばれる〔意味不明なやりとり〕になってしまうわけです。

    ですから、禅語というものは非常に含蓄があり示唆に富んでいて、かつ、人が生きていく上で非常に参考になるものが多いので、昔から一般社会のいろいろなところで使われ、また実際に役立っているのです。

    しかし、この師家から投げかけてもらった〔禅語〕は、「字面(じずら)だけ見たのでは意味不明」なものが多ので、そのことばそのものの意味を辞書で〔調べ〕たり、あるいは自分の知識や経験に照らして〔考え〕たりしても決して解けません。ではどうするか。そこからはじっくり座りながら(座禅をしながら)自分自身と向き合い解いていってください。どうぞ皆さん、静坐会等で座禅を体験しながら理解をしていってください。

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  • 「座禅」と「坐禅」

    ところで、このウェブサイトでは「座禅」という表記を利用していますが、禅宗のほうでは正式には「坐禅」と表記します。けれども、この「坐」の字は一般的にはあまりなじみが薄いので、ここの一般の人たち向けの説明文では「座禅」とさせて頂いております。

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  • 藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第19回ーを受けて

    【第2章 正しく坐るのも一苦労?】

    ―――― 重力と仲良く坐る ――――
    ―――― 坐禅は呼吸法ではない ――――
    ―――― 人間やめて、仏になる ――――
    から想をえて

     坐禅は、言うまでもなく仏教の一派です。ですから、仏教での教えはすべて禅宗にも当てはまります。
     仏教では、この世はすべて真如に満ちている、という考え方があります。「真如」とは、端的に「あるがままの姿」であり、そのあるがままの姿が真実の姿そのものである、という言い方がされます。その真如から現れたものが「如来」(如から来たもの)であり、それは取りも直さず「仏陀」をさします。また、「如」は、この地球を含めた宇宙全体の法則、とも解されています。
     なぜこのような七面倒臭いお話をしたかと申しますと、この章の「重力と仲良く坐る」という、その‟重力”の意味を皆さんと共有したかったからです。
     坐禅は、上述の「世はすべて真如に満ちている」ことと一体となることとは、体を動かすこと、手足を使って何かをすること、をすべて放棄し、その究極においては頭で思考することをも全面的に払拭することにより、即ち、(誤解を恐れずに申し上げれば)我が身を一つの物体となることで「真如と一体化する」ことを説いていますが、ここでは一照さんは「重力と仲良くする」というふうに喩えておられるようです。
     そして、この文章の最後の部分の「人間やめて、仏になる」で、自分の体にあるもの、体の臓器や手足、脳に至るまですべてが自然界と一体になって(「如」を具現するものとして)機能しているのであって、決して‟自分”のためのものではない、としています。そしてそれらの機能が、日々の生きていくなかで「自然と一体にあること」が望ましく、それを体現するのが「坐禅」である、というのです。
     これらのことは、これまでの章の中で一照さんが盛んに述べておられる、坐禅の体勢をとるときに決まった型に体を合わせるのではなく、どこか筋肉や関節に無理がはたらくことがなく、体幹さえしっかりしていれば身も心もリラックスさせて、呼吸も自然に任せてやる、という一照さんのコンセプトが、この「自然と一体となる」ことと見事に符合します。
     
     ところで、「坐禅は呼吸法ではない」ということについてですが、比呂美さんの「数を数えなくていいんですか」という質問に一照さんは、「道元さんの坐禅の場合は息を数えたりしません。坐禅は呼吸法ではありませんから、呼吸を特別視してそれをどうこうしたりしないんです」とお応えになっております。ここで私は、禅宗の中の宗派の違いについてあまり論及する積りではないのですが、道元さんのお名前が出てきたことからもわかるように、一照さんは曹洞宗系の修行をされておられます。
     私たち市川静坐会では、臨済宗系での形をとって坐禅をしております。臨済宗では、普段の坐禅中には「数息観」といって、自分の息を勘定します。吸って吐いての一呼吸を「ひと~つ」、その次の呼吸を「ふた~つ」というふうに勘定していきます。それは、自分の呼吸に集中を向けて三昧力を養うことを目指してやるのです。ところが、曹洞宗系ではこれを致しません。ひたすら坐る「只管打坐」に徹します。そこで一照さんは「呼吸を特別視」しません、とおっしゃいます。
     確かに「坐禅は呼吸法ではありません」ので、呼吸を数えることだけで完結してしまってはいけないかもしれませんが、禅宗では曹洞系、臨済系を問わず「息」というものを非常に大事にします。それは呼吸が、心臓の鼓動と同じように人の生命維持に直結する動作であり、「心臓の鼓動」は自分の意志ではコントロールできない動作(不随筋の動作)であり、一方、「呼吸」は止めることはできないにしてもある程度自分の意志でコントロールできるものです。
     そして呼吸は、体のいろいろな箇所に(単に酸素を送り込むだけではなく)いろいろな作用を及ぼしていることは皆さんもよくご存じのことです。更には、呼吸は「気」という言葉と表裏となり、心にもたいへん作用を及ぼします。「呼吸(気)が荒くなる」「呼吸(気)を鎮める」「大きく息を吸う(気を大きく持つ)」などと、呼吸をコントロールすることで心をコントロールすることに利用されています。前にも触れましたが、坐禅の三原則として「調身、調息、調心」というのがあり、これは曹洞系、臨済系ともに坐禅を組む際の必須要件として言われます。ことほど然様に「息」というもののその大事さにおいて、坐禅も例外ではないのでしょう。
     「坐禅は呼吸法ではない」ことは紛れもないことではありますが、然は然り乍ら、坐禅をするに当たって最も大事な「三昧力」の養成には「数息観」が非常に有効であることは、これまた紛れもないことではないではないでしょうか。これは私が臨済系だから、ということではけっしてない積りです。重ねて申し上げますが、数息観をやることは、呼吸に集中するためのもので、そこまでで帰結してしまうものではありません。あくまでも「その先にあるものを遠望して」それを目指して、そのツールとしてやるのです。そして、その先は果てしがないのかもしれませんが、その時々でその‟ツール”を利用して歩を進めていくのではないでしょうか。それ故、呼吸をないがしろにすることにはあまり賛同できません。

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  • <第73回>藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第20回ー

    【第2章 正しく坐るのも一苦労?】
    ※ 今回は「第2章」の4回目です。

     ―― 眠気とタンゴを踊る ――

    伊藤比呂美(以下、比呂美) こんなふうにリラックスして坐っていたら、眠くなってきました。 
    藤田一照(以下、一照) 眠気と戦ったら、たぶん負けます。戦ったらダメ。眠気に甘えのでもなく、眠気と戦うのでもなく、それと一緒にいるという第三の道をさぐる。
    比呂美 眠気は暴力的に襲い掛かってくるみたい。どうやったら眠気と一緒になれるんですか。
    一照 眠いときは、たいていゆっくり眠くなりますよね。そのゆっくりの様子に気づき続けながら、眠気と付き合ってみる。
    比呂美 今のまま眼を開いたまま、眠いな、眠いなと思いながら、眠いというのを意識していいんですか?
    一照 現に眠いわけですからいいです。現に起きていることにはっきり気づいていることが大事なんです。それができているということが今目覚めていることの証拠。基本的に、今生じていることから目を逸らさないこと。それに対し、押し返すのでも、「もうダメだ」と呑み込まれ流されてしまうのでもなく、自分のバランスを保ちながら長くそれに触ってつながっていること。
     そこで寝てしまっても、自分を責めない。「ああ寝たんだな」とぱっと気がついて覚めてくる過程を感じる。寝ちゃった自分は坐禅に失敗したんだとかそういうふうに物語を作らない。いま現に生じていることにまたコンタクトし、現に起きていることとつながってそれとダンスしながら坐り続ける。
    比呂美 カクッとなたら、ああ寝ちゃったとおもって恥かしい。
    一照 思ったら思ったでいい。それを引きずらずに坐禅にもどる。そういう時は気が抜けたり凝ったりして姿勢が崩れているから、姿勢をリセットして心機一転坐禅に帰る。こういうふうに坐禅は外れたらまた出直す。
    比呂美 (初心の人の坐禅の2大悪弊は)寝ることと、考えにふけること。考え事はダメって言うのが、私、一番難しかった。
    一照 坐禅をしているときの局面として必ず現れるのが眠気と、考え事です。それは仕方がない。でもそこから覚めて帰っていくのが坐禅だから、やはり眠気から覚め、考えから覚める方向は向いていないといけません。
    比呂美 考えから覚める?
    一照 人は、いったん覚めてもまた考えたり眠くなったりします。坐禅とは、眠気と考え事以外にも、いろいろな局面を辿って展開していきます。そういうもの全部含めて丸ごとが坐禅のフルコースです。それら全部いただきます。

     ―― 雑念が湧いてきたら・・・ ――

    比呂美 考えから覚めるということは、本当に考えなくなる瞬間もあるということですね。
    一照 考えを追いかけていない状態です。
    比呂美 そういう状態というのは、たぶん私がまだ行き着いたことのない境地かも。
    一照 そんなことはないですよ。人間、そんなに考え続けることはできないって。
    比呂美 ボーッとした感じ?
    一照 ボーッとなるんじゃなく、覚醒しているけど、思考活動がただ一時的に止まっている瞬間。ずーっと聞こえていた音がプッと切れるような感じのとき。僕らの心はいろいろな状態を経めぐりながら変遷をしています。どれがいい、どれが悪いということではなくてね。その中のひとつの状態として思い浮かんでこない状態もあります。
     禅には「畢竟帰(ひっきょうき)」という言葉があるんです。要するに、行き着くべきところに行き着いたところという意味。人生上のどうでもいいことをふるいにかけてどんどん落としていって最後の最後に結局残るのはいったん何だという、そういうギリギリに詰まったところのことです。
    比呂美 それが坐禅をやっている姿だと。
    一照 そう。坐禅はある意味、生きたまま棺桶の中に入っている姿ですから、生産活動も社会活動も何もしないで息をしているだけですからね。死ぬシミュレーションと言ってもいい。澤木興道老師は「坐禅というのはお母さんの体内にもう一度入るか、棺桶に入って、あらためて人生を考え直すようなものだ」と言っています。もう人生が終わってしまったところから人生を見直してみるということですよ。人生が始まる前と人生が終わってから、その立場で人生を考え直してみるような、と。そういう視点を人生に持ち込んでみたらどうかということでしょう。人生の中にいたら人生はわからない。外の視点から見て初めてわかる。
     僕も安泰寺で坐っているとき、世の中のみんながある方向に向かってだーと走っているというのに、僕はそこから取り残された感じでじっと坐ってる。それでいいのか? みたいなことを思わざるを得ないじゃないですか。一応そういう覚悟をして出家したとはいえ、まだ心の中に世間がだいぶ残っている。それと向き合いながら坐るわけです。人生から取り残された感じ。欲望と煩悩は、お寺に入ったからといって、自動的になくなるわけじゃないし、坐禅してなくなるわけでもない。むしろそういうものとちゃんと向きあわざるを得なくなる。そういうものを抱えて坐っていくということですよ。カニが泡をブクブク吹くような、という表現をする人もいるけど。坐禅をしていて、「ああしたらよかった、こうしたらよかった」という後悔とか、自分の煩悩とかが、カニが泡を吹くようにいっぱい出てくる。そういうものを自分のうちに抱きながら、それでもじっと坐っているんです。でもそれと戦っているわけじゃない。また、それに呑みこまれるわけでもない。大事なのはそういう状態がありつつ、もっと大きな空間の中にそれを置いておくわけです。
    比呂美 私なんかが坐禅をしているとき、それこそいろいろな雑念というのが、ぷくぷく、ぷくぷく、止めどなく湧き出してくるんです。どうしたらいいんですか。
    一照 それを止めようとしないで、もっと広く大きな部屋の中に入れておけばいい。(その場に)押しとどめずにドアを開けて中に入れてやって、自由にさせて、出ていきくたくなったら出ていかせる。心の風通しを良くしてやればいい。来るのも自由、出るのも自由。坐禅をそういう安全で自由な広い空間みたいなものに育てていくんですよ。
    比呂美 考えがなくなる瞬間は、いつ来るんでしょうか。
    一照 それはやってみないとわからない。でも「そのときの坐禅はそうだった」というぐらいの腹の据わったというか、覚悟でやらないといけませんよ。「考えが浮かんでこない、いい坐禅にしたい」とか「やる回数が少ないから、この一回で勝負」みたいに考えて坐ると余計にブクブク出てきます。
    比呂美 欲が出てしまうんですね。でもそれは違うと。

     ―― 悪魔が消え去る方法 ――

    一照 あのシダールタ(㊟ お釈迦様の本名)でさえも、樹下で坐っているとき悪魔に誘惑されたのを知っているでしょ。彼だって坐っていきなりうまくいったわけじゃなくて、邪魔するやつがいっぱい出てきた。むしろ、悪魔が邪魔してこない坐禅の方がおかしいとさえ言える。
     彼だっていろんな誘惑があったでしょう。恐怖心、性欲、疑い、権力欲、名誉欲、プライド。悪魔はいろいろな手練手管を使って、シダールタを坐っているところから立たせようとした。坐禅の邪魔をしようとした。
    比呂美 なるほど、シダールタが経験したことを、自分もすごく卑近な例で全部体験した感じなんですね。坐禅をやりながら。
    一照 そうですね。それは失敗どころか宗教的には貴重な体験なんですよ。シダールタはその場合どうしたかというと、「悪魔よ、私はお前がそこにいることを知っているよ」というだけなんですよ、これを言われると悪魔は手を出せないんですよ。
     正体がわかっている。ちゃんと気づいているということ。だから坐禅の時にそういうのが現れても、失敗ではないんですよ。問題は、現れたときにどうやってそれと付き合っていくかというこちら側の態度にかかっている。
    比呂美 否定せずにウェルカムする。
    一照 そう。悪魔の存在を認めてその言い分をちゃんと聞く。そうしたら悪魔は納得して消えていく。納得してというのが大事ですよ。
    比呂美 そういう考え事で集中力が切れて動いたり、居眠りしたら、バシッとやられるのはないんですか。あれ、警策でしたっけ。
    一照 うちではやりませんけど、眠くてたまらないときとか、自分でどうしようもないときに合掌して「お願いします」といってやってもらうのが普通で、よく誤解されているけど罰でたたいているんじゃないんですよ、ヘルプしているんです。合掌して、「すみません。ヘルプしてください」というジェスチャーがある時だけやるのが原則ですが、あまり見かねたときは頼まれなくてもたたくときがありますけどね。その場合もいきなりというわけじゃないです。ちゃんと作法というか手続きを踏んでやります。でも、人に見はられていないと坐禅ができないというのはやっぱりおかしいでしょう。自分の坐禅の責任を取るのは自分だけ。坐禅といったら棒でたたくやつなんでいう通俗的なイメージは困ったもんですね。そういう先入観からまず変えていかないといけない。
    比呂美 イメージが変わりました。今日も実際やってみて、すごく楽しかったです。坐禅というのは苦行だとばかり思っていたんですよ。自分の中に、やはり苦行だと思った部分があった。ところが今回、一照さんと話している中で、今までやってきたエクササイズとか乗馬やズンバとか、好きでやったことと全部いっしょだというのがわかって、これは苦行じゃないというのが実感できたんです。
    一照  いままでは苦行だと思い込んでいるから、自分で知らない間に苦行にしてしまっていたんですね。
    比呂美 こうやって私たちが生きてきたことをそのまま、ここで肩の力を抜いた状態で坐れればいいんだというのがスッと入ってきた。

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  • 連休中の静座会について

    〔10連休中の静座会〕
    10連休中の静座会は、
     〇 4月27日は開催します。
     〇 5月4日は、中央公民館が休館のため静座会もお休みします。
    以降はいつも通り開催します。

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