【第2章 正しく坐るのも一苦労?】
※ 今回は「第2章」の4回目です。
―― 眠気とタンゴを踊る ――
伊藤比呂美(以下、比呂美) こんなふうにリラックスして坐っていたら、眠くなってきました。
藤田一照(以下、一照) 眠気と戦ったら、たぶん負けます。戦ったらダメ。眠気に甘えのでもなく、眠気と戦うのでもなく、それと一緒にいるという第三の道をさぐる。
比呂美 眠気は暴力的に襲い掛かってくるみたい。どうやったら眠気と一緒になれるんですか。
一照 眠いときは、たいていゆっくり眠くなりますよね。そのゆっくりの様子に気づき続けながら、眠気と付き合ってみる。
比呂美 今のまま眼を開いたまま、眠いな、眠いなと思いながら、眠いというのを意識していいんですか?
一照 現に眠いわけですからいいです。現に起きていることにはっきり気づいていることが大事なんです。それができているということが今目覚めていることの証拠。基本的に、今生じていることから目を逸らさないこと。それに対し、押し返すのでも、「もうダメだ」と呑み込まれ流されてしまうのでもなく、自分のバランスを保ちながら長くそれに触ってつながっていること。
そこで寝てしまっても、自分を責めない。「ああ寝たんだな」とぱっと気がついて覚めてくる過程を感じる。寝ちゃった自分は坐禅に失敗したんだとかそういうふうに物語を作らない。いま現に生じていることにまたコンタクトし、現に起きていることとつながってそれとダンスしながら坐り続ける。
比呂美 カクッとなたら、ああ寝ちゃったとおもって恥かしい。
一照 思ったら思ったでいい。それを引きずらずに坐禅にもどる。そういう時は気が抜けたり凝ったりして姿勢が崩れているから、姿勢をリセットして心機一転坐禅に帰る。こういうふうに坐禅は外れたらまた出直す。
比呂美 (初心の人の坐禅の2大悪弊は)寝ることと、考えにふけること。考え事はダメって言うのが、私、一番難しかった。
一照 坐禅をしているときの局面として必ず現れるのが眠気と、考え事です。それは仕方がない。でもそこから覚めて帰っていくのが坐禅だから、やはり眠気から覚め、考えから覚める方向は向いていないといけません。
比呂美 考えから覚める?
一照 人は、いったん覚めてもまた考えたり眠くなったりします。坐禅とは、眠気と考え事以外にも、いろいろな局面を辿って展開していきます。そういうもの全部含めて丸ごとが坐禅のフルコースです。それら全部いただきます。
―― 雑念が湧いてきたら・・・ ――
比呂美 考えから覚めるということは、本当に考えなくなる瞬間もあるということですね。
一照 考えを追いかけていない状態です。
比呂美 そういう状態というのは、たぶん私がまだ行き着いたことのない境地かも。
一照 そんなことはないですよ。人間、そんなに考え続けることはできないって。
比呂美 ボーッとした感じ?
一照 ボーッとなるんじゃなく、覚醒しているけど、思考活動がただ一時的に止まっている瞬間。ずーっと聞こえていた音がプッと切れるような感じのとき。僕らの心はいろいろな状態を経めぐりながら変遷をしています。どれがいい、どれが悪いということではなくてね。その中のひとつの状態として思い浮かんでこない状態もあります。
禅には「畢竟帰(ひっきょうき)」という言葉があるんです。要するに、行き着くべきところに行き着いたところという意味。人生上のどうでもいいことをふるいにかけてどんどん落としていって最後の最後に結局残るのはいったん何だという、そういうギリギリに詰まったところのことです。
比呂美 それが坐禅をやっている姿だと。
一照 そう。坐禅はある意味、生きたまま棺桶の中に入っている姿ですから、生産活動も社会活動も何もしないで息をしているだけですからね。死ぬシミュレーションと言ってもいい。澤木興道老師は「坐禅というのはお母さんの体内にもう一度入るか、棺桶に入って、あらためて人生を考え直すようなものだ」と言っています。もう人生が終わってしまったところから人生を見直してみるということですよ。人生が始まる前と人生が終わってから、その立場で人生を考え直してみるような、と。そういう視点を人生に持ち込んでみたらどうかということでしょう。人生の中にいたら人生はわからない。外の視点から見て初めてわかる。
僕も安泰寺で坐っているとき、世の中のみんながある方向に向かってだーと走っているというのに、僕はそこから取り残された感じでじっと坐ってる。それでいいのか? みたいなことを思わざるを得ないじゃないですか。一応そういう覚悟をして出家したとはいえ、まだ心の中に世間がだいぶ残っている。それと向き合いながら坐るわけです。人生から取り残された感じ。欲望と煩悩は、お寺に入ったからといって、自動的になくなるわけじゃないし、坐禅してなくなるわけでもない。むしろそういうものとちゃんと向きあわざるを得なくなる。そういうものを抱えて坐っていくということですよ。カニが泡をブクブク吹くような、という表現をする人もいるけど。坐禅をしていて、「ああしたらよかった、こうしたらよかった」という後悔とか、自分の煩悩とかが、カニが泡を吹くようにいっぱい出てくる。そういうものを自分のうちに抱きながら、それでもじっと坐っているんです。でもそれと戦っているわけじゃない。また、それに呑みこまれるわけでもない。大事なのはそういう状態がありつつ、もっと大きな空間の中にそれを置いておくわけです。
比呂美 私なんかが坐禅をしているとき、それこそいろいろな雑念というのが、ぷくぷく、ぷくぷく、止めどなく湧き出してくるんです。どうしたらいいんですか。
一照 それを止めようとしないで、もっと広く大きな部屋の中に入れておけばいい。(その場に)押しとどめずにドアを開けて中に入れてやって、自由にさせて、出ていきくたくなったら出ていかせる。心の風通しを良くしてやればいい。来るのも自由、出るのも自由。坐禅をそういう安全で自由な広い空間みたいなものに育てていくんですよ。
比呂美 考えがなくなる瞬間は、いつ来るんでしょうか。
一照 それはやってみないとわからない。でも「そのときの坐禅はそうだった」というぐらいの腹の据わったというか、覚悟でやらないといけませんよ。「考えが浮かんでこない、いい坐禅にしたい」とか「やる回数が少ないから、この一回で勝負」みたいに考えて坐ると余計にブクブク出てきます。
比呂美 欲が出てしまうんですね。でもそれは違うと。
―― 悪魔が消え去る方法 ――
一照 あのシダールタ(㊟ お釈迦様の本名)でさえも、樹下で坐っているとき悪魔に誘惑されたのを知っているでしょ。彼だって坐っていきなりうまくいったわけじゃなくて、邪魔するやつがいっぱい出てきた。むしろ、悪魔が邪魔してこない坐禅の方がおかしいとさえ言える。
彼だっていろんな誘惑があったでしょう。恐怖心、性欲、疑い、権力欲、名誉欲、プライド。悪魔はいろいろな手練手管を使って、シダールタを坐っているところから立たせようとした。坐禅の邪魔をしようとした。
比呂美 なるほど、シダールタが経験したことを、自分もすごく卑近な例で全部体験した感じなんですね。坐禅をやりながら。
一照 そうですね。それは失敗どころか宗教的には貴重な体験なんですよ。シダールタはその場合どうしたかというと、「悪魔よ、私はお前がそこにいることを知っているよ」というだけなんですよ、これを言われると悪魔は手を出せないんですよ。
正体がわかっている。ちゃんと気づいているということ。だから坐禅の時にそういうのが現れても、失敗ではないんですよ。問題は、現れたときにどうやってそれと付き合っていくかというこちら側の態度にかかっている。
比呂美 否定せずにウェルカムする。
一照 そう。悪魔の存在を認めてその言い分をちゃんと聞く。そうしたら悪魔は納得して消えていく。納得してというのが大事ですよ。
比呂美 そういう考え事で集中力が切れて動いたり、居眠りしたら、バシッとやられるのはないんですか。あれ、警策でしたっけ。
一照 うちではやりませんけど、眠くてたまらないときとか、自分でどうしようもないときに合掌して「お願いします」といってやってもらうのが普通で、よく誤解されているけど罰でたたいているんじゃないんですよ、ヘルプしているんです。合掌して、「すみません。ヘルプしてください」というジェスチャーがある時だけやるのが原則ですが、あまり見かねたときは頼まれなくてもたたくときがありますけどね。その場合もいきなりというわけじゃないです。ちゃんと作法というか手続きを踏んでやります。でも、人に見はられていないと坐禅ができないというのはやっぱりおかしいでしょう。自分の坐禅の責任を取るのは自分だけ。坐禅といったら棒でたたくやつなんでいう通俗的なイメージは困ったもんですね。そういう先入観からまず変えていかないといけない。
比呂美 イメージが変わりました。今日も実際やってみて、すごく楽しかったです。坐禅というのは苦行だとばかり思っていたんですよ。自分の中に、やはり苦行だと思った部分があった。ところが今回、一照さんと話している中で、今までやってきたエクササイズとか乗馬やズンバとか、好きでやったことと全部いっしょだというのがわかって、これは苦行じゃないというのが実感できたんです。
一照 いままでは苦行だと思い込んでいるから、自分で知らない間に苦行にしてしまっていたんですね。
比呂美 こうやって私たちが生きてきたことをそのまま、ここで肩の力を抜いた状態で坐れればいいんだというのがスッと入ってきた。