6月 21日 松原泰道著 『公案夜話』-第22回〔洞山麻三斤〕

 ――― 洞山麻三斤(とうざんまさんきん)- 仏性とは何か ―――

 この原文は、『無門関』という禅書に出てくる文章で、

 洞山(とうざん)和尚、因(ちなみ)に問う、如何(いか)なるか是(こ)れ仏。山(さん)云(いわ)く、麻三斤(まさんきん)。

という、短いものです。この中の「山(さん)」とは洞山和尚のことで、西暦900年代の中国の僧です。
 ある修行僧が洞山和尚に質問をします、「如何なるかこれ仏」。意味としては「仏性とは何か」というもので、いかにも大上段に振りかぶった哲学的領域とでも言えそうな大きなテーマです。それに対しての洞山和尚の答えは、「麻三斤」という、いかにも人を喰ったような答えでした。まさに禅問答の面目躍如といった問答ですが、「その意味は何か?」というのがこの公案の趣旨です。
 洞山和尚の住んでいた中国・襄州(じょうしゅう)地方というのは麻の産地として有名で、修行僧から「如何なるかこれ仏」と問われた洞山和尚は、そのすぐ手近に三斤(斤は目方です)の麻があったのか、それともすぐそばで誰かが麻を量ってでもいたのか、少なくとも洞山和尚は、非常に手近な〝もの〟で答えていた、というその場の情景を彷彿とさせます。
 むろん、「三斤の麻に仏性が宿っている」などということではありません。たしかに、仏教では「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう=すべての存在はみな仏のいのちを有している)」といことが『涅槃経(ねはんぎょう)』でいわれていますが、これは、原始宗教のように「すべての森羅万象を拝め」ということではなくて、「山や滝を尊厳なものとして崇める自分の心を大切にする」ことである、と松原泰道さんは解説されます。
 洞山和尚は、ここでそんなことを持ち出したのではありません。松原泰道さんはここで、次のようにおっしゃいます。
 「仏心とは、特別の心ではなく、どこにあっても、すべてのものを真理の表象として拝んでゆける自分の心の機能(はたらき)というのです。この心の機能を直接体験といいます。私は経験と体験とを一応区別します。経験は、実際に見聞したり実行したりして、新しい知識や技術が身につくことです。体験は、この経験から宇宙と人生とをつらぬく真理を、自分の全身でうなずきとる、身体でうなずくことです」と。
 最後に松原泰道さんは、三島市・龍沢(りゅうたく)寺の山本玄峰(やまもとげんぽう)老師のされた無門関講座の中の「洞山麻三斤」の部分をひかれてこの章をしめておられます。
 「蚕(かいこ)が桑を十分に食い尽くして透明になって、ほっておいてもひとりでに全身糸になって繭(まゆ)をつくるように、坐禅する人も、腹の中から足のつま先から頭のてっぺんまで透明になるために、公案によって心を統一して坐り抜くなら、ちょっとした縁ではっと気がつくものさ。さとるということは夢から覚めるように、はっと気がつくものさ――」。

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