<第75回>藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第22回ー

【第3章 坐禅の効用って?】
※ 今回は「第3章」の2回目です。

 ―― 凡夫を仏に変えるのが仏教の役割 ――

藤田一照(以下、一照) 道元さんは、シダールタ(仏さまの本名)もそうだけれど、世間の人の欲楽を満たすのが仏教の役割ではないといってます。世間が望むものと仏教が与えようとしているものはほとんどマッチしていないんじゃないですか。いつか絶対いやでも別れなきゃならない、最後の最後は全部この指の間から抜け落ちて、何も残らないようなものを、みんな必死に握りこもうとしている。確実だけど、いつ来るかわからない死を勘定に入れて人生を設計していない。
伊藤比呂美(以下、比呂美) いつかはみんな死んで、ぜんぶ無くなるのだから、「彼女なんていなくてもいいじゃないか」みたいな力づけ方はできますよね。どんなネガティブな事態も、大した問題じゃない、というふうに。今の人はそこのところに向き合わないから、いろいろな問題に別の形で突き当たっている、でもこの「死」という問題に向き合えばさっぱりするのに、みたいな感じで伝えていけば。
一照 広くみんなに受け入れてもらいたいからといって、仏教じゃないもののふりをしてまで伝えることはないと思っているんですよ。仏教として伝えるべきことは妥協しないでまっすぐ伝える。そこにこそ価値があると思うんですが、ただ、今までの日本の仏教は、あまり一般の人たちに親切じゃなかったということは言えるかも知れません。わかる人だけ来ればいいというような態度で難しい言葉を乱発したり。
比呂美 仏教、特に大乗仏教には人助け思想があるはずじゃないですか。そのわりには仏教の人たちって、あまり社会にかかわらないし、あまり社会を助けてくれないという印象なんです。
一照 そうだね。死んだ人たちを救済するような葬式や法事中心の仏教ばかりに力を入れて、生きている人たちの苦しみを救済することに目が向いていないじゃないか、とはよく言われる。
比呂美 たとえばキリスト教だとマザー・テレサとか、今のローマ法王のフランシスコとか、人を助けようという意思が見える。けれど、現代の仏教からは、あまりそういうのが見えてこない。
一照 お坊さんもいないわけではない。ボランティアの会をやったり、いろいろ社会事業をやっているお坊さんはけっこういます。でも僕としては、お坊さんが衆生を助けると言ったら、それは僕の場合なら坐禅をしてもらう、坐禅を広めることなんです。社会事業をするなら別に仏教じゃなくてもいい、坊さんじゃなくてもいい。本来の仏教というのは、なるべく多くの人を仏道修行の道に入れることがメインの社会事業じゃないかと思うんです。在家だろうが出家の人だろうが、仏教の修業をする人に育てる、というのが仏教の一番大切な使命でしょう。
比呂美 教化というやつですね。『日本霊異記』にも、えらい僧も尼も、最後のまとめは必ず、「その後、人をたくさん教化した」となる。
一照 教化というのは、仏教を教えて変化させること。凡夫を仏に変化させること。それは、社会事業を通じてじゃなくて、やっぱり仏道修行をすることによってというのが仏教としては本物です。だからお坊さんと同じ修行じゃなくてもいい、あらゆる人を広い意味での仏道修行者にする。仏教が仏教のままで民衆にかかわるときの、一つの方向性だと僕は思うんです。もちろん、お腹がすいている人に食べ物を、寝るところがない人にすみかを、というのは大切なことです。でも、その上でさらに修行を勧めるという方向に持っていかないと、ただお坊さんが仏道とは別の社会事業をしているだけになってしまう。だったらそこに仏教がなくてもいい。困っている人を助けるというのは、お坊さんじゃなくても誰でもやらなきゃいけないこと。困っている人を助けるのは、最終的には修行に導くためだという展望がないといけない。僕の場合は、坐禅の種を縁のある人たちの心の畑にたくさん播いて、それがすくすく育つ条件に恵まれて育ってくれるようにと願って活動している。坐禅を生活の中心に据えて暮らしてもらいたいということなんです。

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