【第3章 坐禅の効用って?】
―――― 凡夫を仏に変えるのが仏教の役割 ―――― から想をえて
「仏教」というものが、これほど日本の、文化のみならず生活そのものの中に浸透している、あるいは「かつて浸透していた」にもかかわらず「仏教に帰依する」ということが何か特別なことにイメージされ、ましてや「出家」などというものは「世捨て人」とほゞ同義語で、ストイックを通り越して厭世的な響きすら与えてしまっています。そういうことからすると、この章の冒頭で一照さんがもうされた「最後の最後は全部この指から抜け落ちてしまって・・・いつ来るかわからない死を勘定に入れて人生を設計していない」というくだりは、シダールタのおっしゃられたという「世間が望むものと仏教が与えようとしているものはほとんどマッチしていない」ということを、逆に俗世が“理解”しているから、シダールタからの「世間の人の欲楽を満たすのが仏教の役割ではない」というテーゼに対する世間一般からのアンチテーゼではないのかと、ふと思ってしまいました。世間一般が、「限りあるこの命なのだからその限りある“間”を謳歌しようではないか」というのは、決して罰当たりなことではない、と思うのですが。
「死」というものを絶えず念頭において、この世をはかないもの、一過性のもの、という認識転換が現世の諸問題の解決策と言えるのかどうか。ならば、いま、この世に生を授かって生きている自己存在のレゾンデートルはどうなってしまうのか(「そんなものはないよ」というのが禅の説法の基幹部分なのですが)。
今回は、やゝ批判的な内容になってしまっていますが、それというのも、この章を読んでいて思い出されたことがあります。2011年の東関東大震災のとき、多くの僧侶が東北に向い、被災者のところを訪ねました。それらを特集した番組をテレビで見ていて深く考えさせられました。多くの被災者、それも目の前で自分の家族、近しい人を失うという苛烈な悲しい状況に遭われた人々、しかもそれらの人々は、その後の生活も従前の生活レベルからかけ離れた状態を強いられている。そのような人たちを前にして多くの仏教関係者が「言葉を発することができなかった」というのです。このような場合の宗教家というのは、これらお坊さんたちはどういう存在なのか、深く考えさせられたものです。
このような場合、一照さんは「一緒に修行をしましょう」というのだろうか。問題の設定と、そのプロセスに飛躍のあることは自覚していますが、しかし、庶民感覚としては非常にシンプルな感想だと思うのですが。
多くの仏教者、たとえば瀬戸内寂聴さんなどは、そのご本のサブタイトルには「人は人のために生きる」というのも見受けられます。そして、寂聴さんご自身もその生き方を率先垂範されておられます。そして、本書のこの章の中にも出てきますが、キリスト教徒の中では、私の拙い知識ではありますが、たとえばアルベルト・シュヴァイツァー博士、世界的な哲学者(カント研究)であり卓越したオルガン奏者でバッハ研究家でもあった博士が、その全てを投げ打ってアフリカの僻地のランバレーネで医療活動を続けこの地に骨を埋めました。また、ポーランド人のマキシミリアノ・コルベ神父、この方は日本でも宣教活動をされていたことがあるそうですが、ナチス占領下のワルシャワにとどまり宗教活動を続け、ゲシュタポに捕まりアウシュビッツ送りとなりました。収容されていた部屋の中の一人が脱走を図り、見せしめとして同室の何人かが死しか残されていない「餓死刑の部屋」送りとなることになりました。その中の一人のポーランドの軍人が妻子のことを思い泣き崩れていると、神父は「私が妻子あるこの人の代わりになります」と申し出て亡くなられたそうです。もう一つ、昭和29年、当時本州と北海道を結んでいた青函連絡船の洞爺丸が、台風のために転覆してしまい乗員・乗客合わせて1155人が犠牲となりました。このとき海に投げ出されたアメリカの宣教者ディーン・リーパーさんとカナダの宣教者のアルフレッド・ラッセル・ストーンさんの二人は、自ら身に着けていた救命胴衣を、それをまともに着けることができずにもがいていた日本人の乗客に譲って、お二人はそのまま亡くなられたそうです。
私どもは足元にも及ばないのですが、いまでも多くの禅修行者の方達が「禅による心の救済」の有効性を弘めることに大変努力されておられます。ところが、なかなかままならないというのが偽らざる現状です。上に書きましたキリスト教と仏教と、非常に一面的ではありますが、社会に対する関わり方の彼我の違い。「宗教とは人のために生きることである」という言葉をふと思い出してしまいます。
本章で示された一照さんの、禅をはじめとする仏教のドラスティックな側面。それは、それらのものからイメージされる静謐な側面とは対極にあるものでしょう。そして、その中実を肌で感じ取っってしまった者にはかけがいのないものでしょうが、けれども、それを「一般化」あるいは「社会化」する段になりますと、さてどうしたものなのか。「凡夫」を「教化」するのは「仏道修行によらずしてない」という。
「教化」とは“人”そのものに内在し、醸し出す啓示のようなものではないか、と思うのですが。そう思うにつけても、他人のことは言っていられない、我が修行の懈怠ぶりが思いやられてしょうがないのですが。