【第3章 坐禅の効用って?】
―――― 坐禅は人を熟成させる触媒 ―――― から想をえて
「坐禅は人生を熟成させる触媒」、この点に関しては私も大変共感できるところがあります。
では“人生の熟成”とは? それは人間性を高めること、さらに具体的にいえば「大人になること」ではないでしょうか。「大人になる・・・」というと、特に若い人たちの中には、「生きていく知恵を身につけること」、「世の中を渡っていくための術を知ること」という風に、ネガティブな捉え方をされてしまわれる向きもありましょう。そこで、ここに「人間性を高める」と掲げたところに着目していただきたい。人間性とは、やゝ在り来たりのそしりは甘受しますが、自分が他人(ひと)のためになる存在となること、その他人の集合体たる社会(その大小はといません)によい影響を及ぼす存在となること、ということではないでしょうか。
大人になる、とは「生きていく知恵」やまたその「術」を身につけることではありません。そうではなくて、自分が生きていることがいかに他人のためになっているか、ということを「知る」こと、自覚するでしょう。その認識に立てるかどうか、そこが「ひと」として生きるときの分岐点になるでしょう。それが「大人になる」というときの転換点にもなるのです。
それは、意識してやることではありません。人として歳を重ねていく過程で内熟していき自然発生的に表出してくるものではないでしょうか。「意識的」なものがそこに介在すると、いわゆる「うそっぽく」なります。それは、目的を持ってしまうからで、そこに向かって作用を働かせようとするからで、自分への利益誘導ではないとしても、「他人のため」を目指したにしても、どうしても作為がはたらいてしまっています。坐禅はその意識的な作業を排除します。その不自然さをもっとも嫌います。その内実を内熟させるよう訓練をするのが坐禅です。そこが坐禅が「触媒」としての働きを発揮する、ということなのでしょう。この章で採り上げられている「十牛の図」は、まさにその一連のプロセスを表していると思います。
仏教の精神の重要は柱に、大変情緒的な表現で恐縮ですが、「我が身、我が生を自然の摂理にゆだねる」というのがあります。この「自然」という中には身の回りの細々したことから、宇宙大の摂理に至るまですべてです。そして、その時、その時に起こること(無常の出来事)に自分なりに対処する、自分の持てる全力で対処する、ということを求めています。この辺のことを話し始めたら本の2、3冊はゆうに書けるぐらいの内容の深さと広がりがありますが、ここでは、このほんのとば口の所でご勘弁いただきます。ただ、坐禅は、この仏教の精神を我が身に摂り込む、我が血肉とする、そしてそれを日常で実践するようにするための修行である、とも申せます。