【第3章 坐禅の効用って?】
※ 今回は「第3章」の3回目です。
―― 坐禅は人を熟成させる触媒 ――
伊藤比呂美(以下、比呂美) 前項で一照さんは「坐禅が人生にとっての触媒のように働いて生活を変えていく」とおっしゃっしゃいましたが、「生活の触媒」とは?
藤田一照(以下、一照) 禅の修行を深めていく姿を10枚の図に著した有名な『十牛の図』というのがあります。
※ (筆者・注)十牛図=悟りにいたる10の段階を10枚の図と詩で表したもの。
「真の自己」が牛の姿で表されているため、十牛図という(Wikipediaより)。
この7枚目は、牛と私が一つになって家に帰ってゆったりしている。そして、8枚目は何も描かれていない(丸い円が描かれたものもある)。9枚目は周囲の山川草木の風景だけが描かれている。そして10枚目では、町中の人の集まる場所で、ニコニコと布袋様のように笑っている古老が描かれている。すなわち、最終的には市井の人間関係の中に混じっていく姿となるのです。
東洋的なものというのは、いったん何もなくなって自然に還り、そして、また俗の世界にもどっていく。世俗を離れて隠遁生活で一人悟り済ましたのが理想じゃなくて、俗の中にもどっていき普通の人とあまり区別がつかないものなっていく。
比呂美 いい理想ですよね。そうしたら人のことも考えられるでしょう。
一照 坐禅というのは、こうやってじっと坐っていると、体内での自己発酵作用のようなものがあって、お味噌やお酒がゆっくり醸造されているようにじっくり時間をかけて熟成していく。自分の今までの個人史、行いなんかが全部うまーくブレンドされてその人なりのいい味が醸し出される。
別に坐禅しなくてもそういうことが自然に起って、いい印象を醸す人がいますが、坐禅はそういう人生の醸造反応過程をスピードアップする触媒なんです。触媒それ自体は置いておいても何の変化もしないけれど、触媒があることによって、普通じゃなかなか起きないような反応が起きたり、化学変化が早まったりする。坐禅をしていると、人生で起こるいろいろな出来事が通常の時よりももっと人格の深いところに届くよう、そのような機能があるのです。「生活の触媒」の醸造過程も、そういう深いとことで静かに進んで、次第にじわじわ人格とか普通の生活に効いてくるようなことが起こる、と長年坐禅をやってきて思うんです。
でも、世の中には必ずしも熟成に結びつかない苦労の仕方もある。苦労したってだけでそれが熟成をもたらさない。あるいはただ長く生きてきたってだけで、それに見合うような熟成をしていない人はいる。人間を本当に熟成させる条件というのがあると思う。坐禅にはそういう条件がそろうかもしれない。そこでその人なりの独自の仕方で熟成がおこって。
比呂美 おお、人が熟成する手助けになっていくわけですね。
一照 それはなぜかというと、たぶん自分をごまかさないで正直に、率直に見るからだと思うんです。だって壁に向かって坐っていると、結局見ているのは自分自身の姿なんですよ。普段自分がやっているごまかしとか、いい加減さみたいなものが、記録映画のように浮かんできたり、自分の嫌な面とかいじましさみたいなものかでまざまざと見えてくる。俺ってなんでこんなくだらんことばかり考えるんだろうということもあるし。
比呂美 なるほど、ごまかして生きている自分が見えちゃうのか。
一照 それにたとえば「摂心」みたいにいやになるほど来る日も来る日も長時間坐っていると、今日の晩ご飯は何が食べられるのかなとか、そういうどうでもいいことはだんだん浮かんでこなくなって、下に沈殿していって、何か本質的なことが心に残るんですよ。
比呂美 本質的って?
一照 なぜここでこんなことをしているんだろうとか、なぜ生きているのか、この人生で結局何がしたいのだろうかとか。疲れてくると、どうでもいいような雑念が振るいにかけられて、大事なことだけが残り、どうでもいいことは思いつかなくなる。それはやはり雑念妄想じゃなくて、自分の人生で今この時点でちゃんと取り上げなきゃいけない大事なテーマとして受け取らなきゃいけない。
比呂美 自分自身への大事なメッセージ。だけどそこで、それについて考え始めたらダメなんですよね。
一照 そう、坐禅の時は、それをあれこれ考えるんじゃなくて、坐禅以外のときにちゃんと、これはなぜ坐禅の時に繰り返し浮かんでくるテーマだなと受け止めて、思推する。これは自分なりに今、腰を据えて取り組まなきゃいけないことなんだな、と。
比呂美 何か気になる夢を見て、夢のことをずっと考えていたら問題が解決できるみたいなことって、あるんじゃないですか。それと同じような感じですか。
一照 そう、そこに大事なメッセージ性があるなと気になったらね。
比呂美 つまり坐禅をやっていると、自分の中の本質的なところにスーとはいっていける。
一照 坐禅というのは、ああやって坐っていることで、自ずと内なる声に耳を澄ませている状態なんです。自分の人生が現在進行形の所で、騒音や雑音がおちていって、そこでまだ残っているハートからの声みたいなものを聞いているといってもいいかもしれない。だから何かメッセージを受け取っているんですよ。
比呂美 耳を澄まして何かを受け取るって、詩もそうですね。やはり坐禅は創造的作業だから、詩を書くことと同じなんだ