【第3章 坐禅の効用って?】
※ 今回は「第3章」の8回目です。
―― 何もアテにせず、ただ坐りなさい ――
藤田一照(以下、一照) 道元さん(日本の曹洞宗の開祖で、仏性伝燈国師とも称せられた。いたずらに見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏である、と唱えた)は坐禅というよりも打坐と言います。日本語で坐禅というと、精神統一とかある特別な心理状態になる、というような意味も同時に立ち上がってきます。道元さんはシンプルに打坐(ただひたすらに坐る。それに成りきることで、道元禅師は、「坐禅は、坐ることに成りきること」と唱えた)という。掛け値なしに身と心をあげて結跏趺坐すること。身で結跏趺坐する、心で結跏趺坐する、心身で結跏趺坐する、心身脱落で結跏趺坐する。百パーセント結跏趺坐しかやっていない。
普通は瞑想というと、体は結跏趺坐で坐っていても心は坐ることとは別に何か瞑想的な技をするでしょ。特定の身体感覚に注意を集めるとか。精神統一でもいいし、煩悩を掃除するでもいいけど、特定の目的を目指す瞑想はあくまで個人レベルでの改善プロジェクトでしょう。坐禅というのは、それをやって今よりちょっとましな人間になった、あるいはストレスが少なくなった、今まではすぐムカッと来ていたけど怒らなくなった、よかった、よかった、めでたし、めでたしで終わるためのものじゃないんですよ。坐禅はそういう自分のための効用をアテにしてやるものではない。これらは、わたしという個人にとっていいといういわば自己満足。こうなりたいという個人的な欲望が叶っただけの話。わたしの人生上の諸問題を解決しているだけで、人生そのものの解決じゃないですよね。ちょっとマシになったというのは、それは私が少しマシになって、私が少し自由になったというだけで、「私そのものからの自由」じゃないんです。
仏教のメインメニューはやっぱり仏に成ることだから、凡夫の私がそのままハッピーになるのとはそもそも次元が違うわけです。
仏教をそういうことに役立ててもらうのは、それはそれでいいこと。禅に由来していて、アメリカなどでは大流行している「マインドフルネス(瞑想やその他の訓練を通じて、「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」といった説明がなされる。禅修行者が提唱して広まった)」なんかも、企業とか心理療法の分野で盛んに採用されている。マインドフルネスの訓練をやれば自律神経のバランスが調って、免疫力があがって、不安にも鬱にも、それこそなんにでも効く万能薬みたいに言われていますが、これはやゝ過大評価だけれど。
伊藤比呂美(以下、比呂美) それは、すごくいいことじゃないですか。
一照 でもそれは坐禅ではない。坐禅をすれば、結果的に自律神経のバランスは調い、自律神経のバランスを整うけれど、それに特化してやったらもうそれは坐禅ではない。そういう先入観や期待を坐禅に持ち込むのは、坐禅から最も遠い態度です。瞑想もマインドフルネスも、人間の役に立つなら、どんどんやればいいと思います。結構なことです。でもそれは仏教の立場とは違う世俗、世間の立場です。人間というかわれわれ凡夫を喜ばせるために、仏教はあるのではない。
比呂美 何のためにあるんですか。
一照 凡夫が仏に成るというのが仏教の教えですが、凡夫の延長線上には仏はないので、凡夫をやめることで助けてくれる、ということです。そういう観点で仏教が人間の役に立つという意味なら「仏教はものすごく役に立つ」といえます。